上皇の執刀医「心臓病はここまで治せる」

幹細胞を吹き付ける「スプレー法」は画期的な治療になる可能性

順天堂大学医学部心臓血管外科の天野篤教授
順天堂大学医学部心臓血管外科の天野篤教授(C)日刊ゲンダイ

 根本的な治療法が確立していない重症心不全の患者さんに対し、新たな治療法の臨床試験が昨年末から行われています。大阪大の心臓血管外科チームが開発した「細胞スプレー法」という治療で、5年後の実用化を目指しています。

 心臓の血管が詰まるなどで心臓の機能が低下する虚血性心筋症からくる重症心不全の治療のひとつとして、血流が悪くなった部分に他の血管をつなげる冠動脈バイパス手術があります。ただし、本来は心筋に分布する毛細血管レベルの血流改善は心筋自体の問題なので、虚血性心筋症では決定的な治療とはいえません。

 今回のスプレー法は、冠動脈バイパス手術を行う際にヒトの脂肪組織から採取した幹細胞を「生体のり」と呼ばれる医薬品の接着剤と混ぜ合わせ、心臓の表面に吹き付けます。幹細胞は血管再生を促すタンパク質を分泌するため、血流を改善させる効果が期待されているのです。

 これまで大阪大の心臓血管外科チームは、重症心不全患者に対する新たな再生医療の研究を進めてきました。患者自身の骨格筋芽細胞をシート状に加工した「ハートシート」を心臓に貼り付ける治療法をはじめ、iPS細胞から分化させた心筋細胞をシート状にして心臓に貼り付ける治療の臨床試験も始まろうとしています。いずれも、新たな心筋の再生による心機能の回復が期待されているのですが、それらの再生医療を行うためには高度な細胞加工施設が必要で、どんな医療機関でも実施できるわけではありません。

 その点、スプレー法は細胞を培養してシート状に加工する特別な技術は不要で、法律上の細胞加工施設は必要ですが、比較的簡便に実施できます。有効性がしっかり確認されて実用化となれば、重症心不全の患者さんにとって救いです。

■低コストな「生体のり」が見直されている

 スプレー法でも利用されている生体のりは、安全性が進歩していてさまざまな治療に使われています。近年は手術で縫合した部分に生体のりを塗ってシーリングして出血を防ぐ方法が広まっています。また、他分野でも液体のりの成分であるPVA(ポリビニルアルコール)が、がんの放射線治療に有効との報告がありました。放射線を当てる際、前もってがん細胞に取り込ませるホウ素化合物の薬剤にPVAを混ぜると、薬剤が長くとどまって放射線治療の効果が高まるといいます。

 そうした成分も含め、生体のりは低コストなうえ、下地を選ばずに細胞の生着率を高めたり、分布の偏りを解決する要素があるため、医療材料として見直されています。今回のスプレー法でも、生体と親和性がある既存医薬品の生体のりを混ぜることにより、心臓の表面に20~30秒ほど吹きかけるだけで、幹細胞が偏りなくしっかり生着する確率が高くなると考えられます。

 幹細胞を利用した新しい再生医療が、高度な施設や複雑な準備も必要なく、低コストで簡単に実施できるとなれば、一般に広まるのは間違いありません。広く普及すればそれだけコストも下がるので、さらに実施する施設が増えるという好循環が生まれます。

 ただ、スプレー法は臨床試験が始まったばかりなので、まだ様子を見る必要があります。現時点では、20~80歳の3人の重症心不全の患者さんに実施され、これから2年かけて安全性と有効性が確認されます。

 もちろん、このまま順調にスプレー法が実用化されれば、画期的な治療法のひとつになります。最終的には根本的な手だてが心臓移植しかない重症心不全の患者さんにとっての光明になるでしょう。大いに期待しています。

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天野篤

天野篤

1955年、埼玉県蓮田市生まれ。日本大学医学部卒業後、亀田総合病院(千葉県鴨川市)や新東京病院(千葉県松戸市)などで数多くの手術症例を重ね、02年に現職に就任。これまでに執刀した手術は6500例を超え、98%以上の成功率を収めている。12年2月、東京大学と順天堂大の合同チームで天皇陛下の冠動脈バイパス手術を執刀した。近著に「天職」(プレジデント社)、「100年を生きる 心臓との付き合い方」(講談社ビーシー)、「若さは心臓から築く 新型コロナ時代の100年人生の迎え方」(講談社ビーシー)がある。

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