20世紀以降のパンデミック史

4000万人以上の命奪ったスペイン風邪 始まりと終わりは?

スペイン風邪ウィルスは戦場でも猛威を振るい、第1位次世界大戦での仏軍は全体の10~15%にあたる兵士が倒れた(C)World History Archive/ニューズコム/共同通信イメージズ
第2次世界大戦の遠因にも

 当初は楽観視されていた新型コロナウイルス感染症(COVID―19)だが、その勢いは増すばかり。ついにWHO(世界保健機関)は「パンデミック」(感染症の世界的大流行)を宣言した。一向に衰えない感染拡大に不安は募るが、“先”が見えれば安心できるはずだ。20世紀以降のパンデミックはどのように終息したのか?

■発端は米国のインフルエンザ

 壊滅的なパンデミックとしていまも語り草になっているのが1918年に流行した「スペイン風邪(=インフルエンザ)」だ。世界中で4000万人以上が死亡した。

 感染すると、健康的な若者でさえ、頭痛、筋肉痛などに加え41度以上の高熱にさらされ、一部は意識混濁となったという。顔に赤褐色の斑点が現れ、それが血液不足を示す青色あるいは黒色の斑点と変わり、耳や鼻から出血する人もいた。そこから回復しても細菌による2次感染で死亡する人が続出。妊婦の2割が流産し、数年後にパーキンソン病や嗜眠性脳炎を発症したケースもある。

 スペイン風邪の流行には3回の波があった。第1波は1918年3月で、第2波は同年9~11月、第3波は1919年初頭だ。

 最初の発生地は不明だが、記録があるのは1918年3月の米国カンザス州。通常なら季節性インフルエンザの流行が終息する時期だが、この年は違った。春を過ぎてもインフルエンザ患者数は減少せず、工場や軍隊での患者が多かった。

 このときのインフルエンザウイルス(H1N1亜型)を欧州に持ち込んだのは米軍だといわれている。米国内の新兵の訓練用キャンプで流行したインフルエンザウイルスを欧州に送られた米国兵士が持ち込んだのだ。

 このウイルスは戦場で猛威を振るった。当時は第1次大戦の真っ最中。ドイツと連合軍が塹壕にこもって戦っていた西部戦線では、不衛生な環境で体力の弱っていた各国兵士を次々と餌食にしていった。比較的軽微な流行といわれた第1波ですら、フランス軍は全体の10~15%にあたる兵士が倒れた。それは各国軍も同じだった。

 当時の戦場では化学兵器が使われていた。そのせいでウイルスの遺伝子変異が起こり、あり得ないほど強毒化したといわれた。

 実際、強毒化したウイルスはアッという間に塹壕で弱っていた両軍将兵を襲い、第2波ではフランス軍は46%が損害を受けた。そして、帰還兵が病原菌を母国に持ち帰る。戦時公債を募るパレードや集会、休戦協定に伴う戦勝祝賀会などを通じて国内で感染拡大していった。日本では1919年に流行し、38万人以上が亡くなった。流行は1922年ごろに終息した。

 実は、戦場で両軍兵士並びに支援要員が重篤なインフルエンザでバタバタ倒れているという事実は、しばらくの間、伏せられていた。自国民の士気の低下を招くからだ。そのため、世界中にこの恐怖のインフルエンザを最初に報じたのが、当時、中立国であったスペインだった。そのため「スペイン風邪」と命名されたといわれている。

■ウイルスが取り付く宿主がいなくなり衰退

 スペイン風邪は、第2次大戦の遠因にもなった。第1次世界大戦後のパリ講和会議で高額な賠償を求める連合国軍首脳に対して、米国のウィルソン大統領は行き過ぎたドイツへの懲罰は将来に禍根を残すとして反対していたが、会議の途中で罹患したウィルソンはその後、性格が一変し、高額賠償に同意した。この決断がドイツを再び戦争に駆り立てた。

 弘邦医院(東京・葛西)の林雅之院長が言う。

「人類にとって新たな病原体が登場した場合、2つの感染拡大パターンがあります。①短期間に急激に感染していくケースと、②少しずつ感染拡大していく場合です。前者は致死率が高いことが多く、感染者が死ぬか、免疫を獲得することで、病原体が新たな宿主を見つけることができなくなり、短期間で終息していきます。後者は致死率が低く、大勢の人が感染しますが、亡くなる方は少なくなります。人口のかなりの割合が感染して抗体を持つようになると、感染の連鎖が断ち切られ、免疫を持たない人が感染した人と接触することが少なくなり、感染拡大がストップするのです。スペイン風邪の場合は、人がたくさん亡くなったり、感染後に治った人が増えたりしたことでウイルスが取り付く宿主がいなくなったために勢いを失ったと考えられています」

 今回の新型コロナウイルスはどちらのパターンで終息するのだろうか。

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