独白 愉快な“病人”たち

走れなくなって…Jリーガー畑尾大翔語る慢性肺血栓塞栓症

畑尾大翔さん
畑尾大翔さん(C)日刊ゲンダイ

「3割ぐらいの確率で死んでいてもおかしくなかったんだよ、キミ」

 肺に水がたまっていることが分かって「即入院」と告げられ、「いや、リーグ戦中なので今チームを離れたくない」と言ったとき、医師にそう言われました。

 大学4年生、キャプテンとして臨んだ関東大学サッカーリーグ戦の最中でした。

 その数カ月前から練習中に息が上がり、咳が止まらない症状は始まっていました。胸が痛いので「肋骨が折れたのかな」と整形外科でレントゲンを撮ったりしていたんです。

 もちろん骨に異常はありませんでしたが、コンディションが悪いままリーグ戦に入ると、自分がマッチアップしていた相手選手にマークを外され決勝点を献上……。思うように走れない体にショックを受け、やっと内科を受診しました。

 すると、肺には600㏄もの水がたまっていて、肺の3分の1が潰れていたのです。入院すると、結核を疑われて3日間隔離されたり、10日間にわたってレントゲン、CT、血液、痰、気管支鏡検査、寄生虫検査までやりました。でも原因がわからず確定診断がつかないまま退院となったのです。

 病名は不明だけれど、水を抜いたら咳や息切れが少なくなったので、「とりあえずサッカーできるからいいか」とプレーを続け、その一方でいろいろな病院で検査を受けました。

「慢性肺血栓塞栓症」と確定診断が出たのは、退院から半年後、インカレ(全日本大学サッカー選手権)の決勝が目前に迫ったときでした。確定診断がついてからすぐにワーファリンという血液をサラサラにする薬を飲まなければならなくなりました。

 肺血栓塞栓症は、心臓から肺に血液を送る肺動脈に血の塊が詰まる病気で、塊が大きいと突然死の原因にもなるといわれています。薬を飲むと傷からの血が止まりにくくなるので試合はドクターストップとなり、決勝戦はピッチのすぐ横でマネジャー業をしました。悔しさの中で考えていたのは、「どうしたらサッカーが続けられるだろうか」ということばかりでした。

■大学留年を選びカテーテル手術

 希望が見えたのは、関東の大学病院から岡山医療センターを紹介されたことです。そこで手術を受け、今があります。岡山医療センターの松原先生という僕の主治医は、血栓塞栓症の第一人者といわれていて、国内外の医師がひっきりなしに勉強に来るほど循環器内科で有名な医師でした。

 初診の際は、過密スケジュールなはずなのに説明に時間をかけてくれたうえ、「早く復帰したい」という僕の気持ちを酌んでくれて、その日のうちに日程を調整して手術の日取りまで決めてくれました。

 手術は、当時としては一般的に開胸手術だったのですが、先生は「カテーテルで血栓除去を行える」とのことでした。でも、前例は日本でわずか100例ほど。しかもトップアスリートの負荷に耐えられるほど回復するかどうかは保証できないと言われました。それでも、大きな希望に胸を膨らませたことは言うまでもありません。

 2013年、僕はあえて留年を選び、大学5年生となった9月に手術を受けました。首の大きな血管から肺までカテーテルを通して血栓を取り除くのですが、1日目は右肺、2日目は左肺と連日の手術でした。普通は手術の間隔を1週間あけるところを早く復帰したいという気持ちを察して先生が強行してくれたのです。退院時に「リハビリはどうしたらいいですか?」と尋ねたら、「それはキミのほうが分かるでしょう? また血栓ができたら来ればいいんだから、とりあえずやっておいで」と背中を押してくれました。

 松原先生が処方してくれた薬はワーファリンとは違い、12時間で薬効が切れる血液サラサラの薬です。僕の病気では脱水状態や長時間同じ体勢でいることがNGなので、就寝時には薬が必須です。ただ、日中、脱水にならないことや同じ姿勢でいないように気を付けていれば現状問題なく、飲まなければ普通の人と同じように血が止まるのでプレーもできるというわけです。

 とはいえ、結果的に1年半サッカーから離れてしまったので、コンディションを取り戻すのは大変でした。大学卒業後、ヴァンフォーレ甲府の練習に参加したものの、ついていけずに挫折しかけました。「一緒に頑張ろう」と言ってくれるチームメートがいなかったら危なかったですね。

 早大の先輩が、あるスポーツ番組で僕の密着特集を組んでくれたことが反響を呼んで、いろんな人がSNSを通じて励ましてくれたのも支えになりました。

 やっと自分らしいプレーが戻ってきたのは2017年の後半です。手術から約4年かかりました。取り戻すにはブランクの3倍かかるというのは本当です(笑い)。

 だけど、もしも病気をせずにプロになっていたら、もっと早くダメになっていたと思います。サッカーができることが当たり前だと勘違いして、自分の体のメンテナンスや、練習、準備に今ほど一生懸命になれなかったと思うからです。

 自分がプロとしてプレーを続けることで、病気の人や子供たちにとって少しでも勇気になるならいいな、と思っています。

(聞き手=松永詠美子)

▽はたお・ひろと 1990年、東京都生まれ。幼少期からサッカーを始め、高校入学と同時に「FC東京U-18」へ加入。キャプテンを務め、2008年のクラブユース選手権で優勝を果たす。09年に早稲田大学に入学し「ア式蹴球部」に入部。4年生でキャプテンを務めるが、病気が発覚して翌年手術を受ける。14年にJリーグ「ヴァンフォーレ甲府」の練習に参加して正式加入。翌年には副キャプテンを務めた。18年に名古屋グランパス、同年7月に大宮アルディージャへ移籍し、現在に至る。ポジションはDF。

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