がんと向き合い生きていく

ふさぎ込んでいた乳がん患者を前向きにさせた実家での出来事

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 会社員のSさん(43歳・女性)は、地方の女子高、首都圏にある短大の英語を学べる学科を卒業し、都内の商社に勤めました。それから数年でリストラに遭って辞め、新薬などの調査・統計を行っている小さな会社に再就職しました。

 知人から紹介されて交際した男性はいましたが、特に引かれることもなく独身で過ごしています。親しい友人はなく、映画が好きで日曜日はひとりでよく出かけ、自分では洋画評論家になれると思っています。特に不自由を感じることもなく暮らしてきました。

 農業を営んでいた両親は、60代で脳出血、心筋梗塞で亡くなりました。弟が家を継ぎ、結婚もして、田畑を見てくれています。

 ある日、乳がんの検診で腫瘤を指摘され、病院受診を勧められました。すぐに、ある病院の乳腺外科で検査を受けたところ、腋窩リンパ節転移が疑われました。結局、右乳腺と腋窩リンパ節郭清の手術を受け、「大きさ3センチの乳がん、リンパ節転移があり、ステージⅡB」との診断でした。

 手術後、傷痕を毎日シャワーで洗い流しました。鏡に映る自分の姿を見ていると、なんだか情けなくなって涙が出てきました。

 退院後、Sさんはホルモン療法と抗がん剤治療を受けることになりました。抗がん剤は、3週間に1回、計4回行いました。「頭髪が抜ける」と言われたので、前もって短く切り揃えてウィッグを用意したのですが、さすがにバッサリ抜けてきたことには驚き、とても憂鬱になりました。しかも、ホルモン剤はこの先10年間も飲むのだそうです。

「今まで、人生で良かったことなんて何もなかった。勉強はクラスで中の上くらい。運動会ではいつもビリだったし、合唱コンクールは予選落ち……。結婚することもなく、子供もいない。そして乳がん。私の人生ってなんなのでしょう? 生まれてきたって仕方がない、意味のない人生なのかしら……」

 会社からは抗がん剤治療が終わるまで4カ月間の休みをもらいました。

 最後の抗がん剤治療が終わると、Sさんは弟に連絡して久しぶりに田舎に帰ってみました。お花を持って、弟が先祖代々のお墓に車で連れて行ってくれました。

 お墓のそばにある桜はすでに咲き始めています。「乳がんはステージⅡBだから死ぬことはない。大丈夫」と思いながらも、手を合わせて心の中で父母にこう話しかけました。

「今度は私がそちらにお世話になりますので、よろしくお願いします」

■「見守っている」と言われている気がした

 弟は、「久しぶりに裏山の風穴に行ってみるか?」と誘ってくれました。中学生の時に遠足で訪れて以来です。

 山の方へ向かって約30分、途中、ユキヤナギの白い花が山道を飾っていました。車を降りてしばらく歩くと、一面、緑の大きなくぼ地があります。座って穴に顔を近づけると、風が吹いてくるのが分かりました。Sさんは手術した右側の手をかざして祈りました。

「この腕を清めてください!」

 近くの山寺から町一面を見渡した後、山を下って帰りました。古い家に戻って仏間で一息つくと、欄間に掲げてある祖父、祖母、父、母の大きな写真が目に入ります。

 おじいさんは川で泳ぎを教えてくれた。おばあさんは、ままごとで遊んでくれた。お父さんは私がいつも徒競走でビリになっても、親が参加する競技に出て1等になって私に賞品をくれた。お母さんはいつもお弁当をつくってくれた……。

「そうか、ご先祖さまがいて、そして私がいるんだ。みんながいてくれたから私がいて、そしてこれからの私もあるんだ」

 そう思っていたら、写真のみんなが「あなたを見守っていますよ」と言ってくれているような気がしました。

 4歳になる甥が「おばちゃーん、ゴハンですよー」と大きな声で叫ぶのが聞こえました。「はーい」と答えながら、Sさんは東京に戻ったら担当医に「いつ乳房再建の手術をするか」を相談しようと思いました。

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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