死なせる医療 訪問診療医が立ち会った人生の最期

病院への搬送がプラスに働いた98歳一人暮らしの元女優

小堀鷗一郎医師
小堀鷗一郎医師(C)日刊ゲンダイ

 自宅で最期を迎えようとしている高齢者に対し、病院に搬送して延命の措置を施すかどうかはケース・バイ・ケース。それぞれの望ましい形で人生を終えるためには、本人の意思や状態、家族の思い、そしてタイミングなど、総合的な判断が必要になる。

 かつて女優をしていたという98歳の一人暮らしの患者は、病院への搬送がプラスに働いた。

「初めて自宅を訪問し診療した時は、きれいにお化粧をして、台湾で映画撮影した際に現地の要人から贈られたというチャイナドレスを身にまとって出迎えてくれました。部屋には女優の頃の華やかなブロマイドや写真がいくつも飾られていた。今ではセピア色となった古き良き記憶に囲まれて生きていたのです」

 小堀さんは、本人と遠方に住む弟と話し合い、そのセピア色の世界で最期を迎えることで合意。患者の負担になる延命措置は施さないと決めていた。

 その後はパーキンソン病を患っていたこともあって次第に歩くことが困難になり、転ぶ回数も増えていった。

 食欲は減退し、配食サービスの食事も口にしない。衰弱している様子もうかがえる。最期はそう遠くないだろうと思われた。

「ある日、ヘルパーが訪問すると、内側からチェーンがかかったままで返事がない。慌ててレスキュー隊を要請して家に入ると、彼女はベッドの脇に倒れていました」

 救急車で病院に搬送されれば、救命措置が行われる。そうなると、希望する最期を迎えられないかもしれない。

 しかし、レスキューの人たちからすれば、倒れている女性を放置することもできず、そのまま堀ノ内病院に搬送された。

「体調が少し戻ったら早めに退院させて、セピア色の世界に戻すのが最善」と小堀さんは考えていたが、本人は違った。

「退院の意思を聞いたら、『もう少し入院してもいい』と言うのです。その理由を聞くと、病棟の担当医による口内炎の治療がきっかけでした。『口の中に指を入れて薬を塗ってもらったの。こんなに優しい先生がいるのなら入院生活もいいわ~』と言っていました」

 その後は、食事も十分に取れるようになって、体調は劇的に回復した。自宅には戻らず施設に入り、穏やかに暮らしている。

「お見舞いに行った時は、あでやかな黄色の洋服に同色のヘアバンドというファッションで出迎えてくれました。セピア色の世界を施設で築いているのです。あの時、病棟の担当医が口の中に指を入れなかったら、彼女は私の指導の下で、自宅に身を置くことになったはず。そうなると、今のような人間らしい生活、輝いていたひと時に浸る生活は送れなかったのではないかと思います」

■透析を中止し2週間後に亡くなった女性

 一方で、積極的な治療を受けないことを選択し最期を迎える人もいる。8年間、週3回の透析を受けていた94歳の女性は、1回あたり数時間の治療が苦痛だった。

「最後の数年は透析に通うのが嫌だと泣いていました。その長男も透析の中止を強く希望され、何度も話し合いを続けた結果、2人の意思を尊重する決断をしました」

 2週間後、彼女は帰らぬ人となった。

 それまでは毎日、禁忌となっていた好物のグレープフルーツジュースをおいしそうに飲んでいたという。

「医療に正解はありません。さまざまな形があるのです」

 それだけに、どう判断して決断するのかは、誰にとっても難しい選択になる。

小堀鷗一郎

小堀鷗一郎

1938年、東京生まれ。東大医学部卒。東大医学部付属病院第1外科を経て国立国際医療センターに勤務し、同病院長を最後に65歳で定年退職。埼玉県新座市の堀ノ内病院で訪問診療に携わるようになる。母方の祖父は森鴎外。著書に「死を生きた人びと 訪問診療医と355人の患者」(みすず書房)。

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