独白 愉快な“病人”たち

眠れないほどの痛みが…カルロス菅野さん語る左肩腱板断裂

カルロス菅野さん(提供写真)

 じつは左肩の手術の2年後に右肩もやって、その間には脊柱管狭窄で腰の手術もしたので、2016年からの3年間はそれまでにない受難の年でした。そもそもの痛みは、その5年以上前から始まっていました。首の付け根の“筋違い”のような小さな痛みです。それが徐々に左肩の痛みとなり、演奏にも差し支えるようになってきました。

「五十肩だろう」と思い、それまで通っていた整体医院から近所の整形外科に通い直し、しばらく首の牽引や痛み止めのステロイドでしのいでいました。でも、14年あたりから痛みが尋常ではなくなってきて真剣に病院探しを始めたのです。

 最初は音楽家の手や腕関係の治療に特化した専門病院に行きました。待合室で知り合いのギタリストを見かけて希望を持ったのですが、残念ながら肩は専門外でした。

 次に行ったのはスポーツ系の肩専門医がいるという大学病院です。でも、音楽は専門外なので「パーカッショニスト」と伝えてもあまり深刻に捉えてもらえませんでした。3カ月リハビリに通いましたが、効果は出ません。その後、別のリハビリトレーニングにも通いましたが、そこでも効果なし。先生からは「やれることはここまで」と言われてしまいました。

 その後も痛みは増すばかりで、夜眠れなくなり、4時間おきに痛み止めを飲む状態になりました。「こりゃまずい」と思い、さらなる情報を求めていたところ、「五十肩は内視鏡で見るとわかる」ということを小耳にはさんだのです。さっそく、関節内視鏡に特化した病院を探し出して受診しました。それが大当たり! その病院の先生と出会った瞬間、すべてが変わりました。

 その病院は膝や肘、肩など各関節の専門医が集結していて、低侵襲の関節鏡(内視鏡の一種)視下手術に特化した有床の整形外科です。

 まず、アシスタントによる問診があり、その結果を見ながら医師が僕の肩の動作を軽くチェック。ほんの2~3分対面しただけで、医師がアシスタントに「何だと思う?」と聞き、「腱板損傷だと思います」と答えると、医師は「いや、これは腱板断裂している」と言ったのです。

 職業を聞かれ「音楽家でこういう楽器をやっている」と説明すると、ササッと名前検索して「もしかしてこの人ですか?」と僕のライブ中の写真を見ながら聞かれました。「そうです」と答えると、「これは大変やで。早くしないとカムバックできなくなってしまう」と言って、すぐにMRIを撮りました。

 1週間後、「上部後側の棘上筋断裂」と診断が下り、「治すには手術しかない」と告げられました。それが15年の夏の終わりです。でも、年内はライブがいくつも入っていたので手術は年明けとなりました。

 そう、年内はライブしたのです。面白いことに、ステージに立ってしまうとプレーできちゃうんですよね。ただ、夜になると肩が熱を持ってだんだん激痛に変わるのです……。あれには相当苦しみました。

■日常生活を取り戻せたのは手術から6カ月後

 手術は関節鏡視下手術で、2時間半の予定が5時間半もかかりました。思ったよりも状態が悪く、肩の後ろを切開する手術になってしまったからです。

 全身麻酔から目覚めると、味わったことがないほどの激痛に襲われました。その瞬間に看護師さんが痛み止めを打ってくれて朦朧として寝てしまいましたが、その時すでに左腕に大きな枕のようなバッグを装着させられていました。腕を下げることでつなげた肩の腱を引っ張ってしまうことを避けるため、バッグを脇に抱える形にして腕を固定するのです。このバッグをなんと1カ月半にわたり装着し続けました。

 そうなることは術前に説明があり、覚悟はしていました。バッグを着けたままの着替えもしっかり練習させられて(笑い)。でも、いざ本番となると本当に大変でした。

 入院はたったの2泊3日でしたが、バッグを抱えたまま退院し、長い自宅療養となりました。一番大事なことは転ばないこと。そしてこのバッグを着けている6週間は、自力で腕を動かそうとしてはいけないということです。「肩に力を入れてもいけない。再断裂したらもう戻らない」と言われました。

 バッグは段階的に小さくなっていくのですが、一瞬たりとも外せません。寝返りもできないので、ソファに上体を起こす形で寝る毎日……。お風呂に入るときは濡れてもいいようにバッグの代わりにペットボトルを数個束ねたものに付け替えます。左は利き腕ではなかったのですが、つい動かしてしまいそうになるので、ソファでダラダラすることしかできませんでした。

 バッグが外れたら外れたで、筋肉が落ちてしまって腕を机の上に持ち上げることもできません。リハビリの先生の指導の下、本当に少しずつ可動域を広げていき、日常生活を取り戻せたのは手術から6カ月後でした。

 がむしゃらに突っ走っているところから、いったん足を止めて自分を振り返る時間ができたことで、次の世代に何を渡してゆくのか、といったことを考え始めました。

 何かができなくなるということも、ときに大事なことかもしれませんね。

(聞き手=松永詠美子)

▽かるろす・かんの 1957年、東京都生まれ。大学卒業後に音楽活動をスタートさせ、84年にラテンフュージョンミュージシャンの松岡直也グループに加入。その後、サルサバンド「オルケスタ・デ・ラ・ルス」の結成メンバーとして活躍。リーダーを務めた後、95年に脱退し、ラテンジャズビッグバンド「熱帯JAZZ楽団」を結成。パーカッション兼リーダー兼プロデューサーとして活動。6月20日にアルバム「熱帯JAZZ楽団XVIII~25th Anniversary~」をリリース予定。7月から各地で記念公演を行い、東京では8月10日「ティアラこうとう」で開催予定。チケット発売中。

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