独白 愉快な“病人”たち

陶芸家・岡崎裕子さん「トリプルネガティブ」乳がんから学んだこと

陶芸家の岡崎裕子さん
陶芸家の岡崎裕子さん(写真)小澤義人

 こんな大ごとになるとは思わず、気楽な感じで産婦人科を受診したら、左胸のしこりはステージⅡbの「トリプルネガティブ」(現状では治療が難しいとされる乳がんのタイプ)で、さらに遺伝性腫瘍ということが分かり、結果的にかなり動揺する事態になりました。

 結局、左右の乳房と卵巣、卵管を切除することになりましたが、しっかりろくろも回せますし、子供も抱っこできて、趣味のサーフィンや筋トレも楽しんでいます。

 病気が分かったきっかけは、2017年3月ごろ、左胸のしこりに気づいたことでした。でも、2人目の子供の断乳期に入ったころだったので単なる乳瘤だろうと思い、マッサージで流そうとしたんです。でも、それがなかなか小さくならないので近所の産婦人科でエコー検査を受けたところ、検査技師さんの顔色が明らかに変わりました。院長にも「あさって乳腺外科の先生が来るから再来院してください」と言われ、一気に嫌な予感に包まれました。

 自宅に帰って乳がんについてネットで調べあげたことは言うまでもありません。そして再来院で針生検が終わると、結果を待つことなく「次までにどこの病院に紹介状を書くか考えておいてください」と言われてしまったのです。

 8割がんだと思い、落ち込みました。夫と相談して、治療はがん研有明病院で行うことに決めて結果を聞きに行くと、「ステージⅡbで、トリプルネガティブタイプ」(以後、トリネガ)だと告げられました。

 トリネガの手ごわさは予習していたので、そう聞いた途端に死を意識してしまい、がん研有明に移ってから先生に「ステージⅡbでトリネガで元気にされている方はいらっしゃるのでしょうか」と尋ねてしまいました。その時の「たくさんいますよ」という先生の明るい声がキラキラした一文となって、後の治療の支えになりましたね。

 がん研有明では、リンパ節に転移があることも分かり、その上、乳がんで早逝した祖母がいることを告げると遺伝子検査となり、遺伝性乳がんであることも判明しました。

 遺伝性では乳房温存は推奨されません。まずは術前抗がん剤治療に5カ月ほどかけ、ほぼがんが消失したところで左乳房を全摘出しました。その後、予定では放射線治療だったのですが、経過がよく、病理検査の結果、がん細胞が見つからなかったので、そこで治療らしい治療はおしまいになりました。

■セカンドオピニオンで夢のような提案が

 本来なら喜ばしいことなのですが、「放射線なしで本当にいいの?」と逆に不安になってしまって、主治医に「セカンドオピニオンを受けたい」と申し出ました。

 実はその後、がん研有明で控えていたのは、右乳房と卵巣・卵管の予防切除でした。「遺伝性」では、乳房や卵巣・卵管はがんになりやすい。今はがんがなくても、子供のためにも元気に生きることが優先だったので、私は予防切除に前向きでした。

 セカンドオピニオンをお願いしたのは、遺伝性乳がんに関する著書を数多く出されている聖路加国際病院の山内英子先生です。がん研有明の主治医も快く紹介状を書いてくださり、山内先生を受診すると、私にとっては夢のような提案がありました。

 それまでは、右胸と卵巣・卵管の手術は別々なので、入院も複数回に及ぶと聞いていたのですが、山内先生は「一度に両方できる上に左胸の再建手術も同時にできるから、うちに転院してくれば?」と言ってくださったのです。

 2人の子を持つ身として、こんなにありがたいことはありません。円満に転院の手続きを行い、2018年7月にいろいろまとめて手術をしました。卵巣・卵管は内視鏡手術ですし、胸も複雑な手術ではないので、翌日には普通食でしたし、歩いていました(笑い)。

 今も脇の感覚がなかったり、重だるさなど不調を言えばキリがないんですけれど、問題なく日々を過ごしています。

 髪の毛も、今は全部地毛ですけれど、抗がん剤治療では髪もまつげも眉毛も抜けました。なので、ウィッグを使用していたんです。その後、2センチぐらい生えてきたときは髪を脱色しました。黒髪で2センチだと何か事情がありそうですが、1回脱色したらオレンジ色になったので、おしゃれ短髪っぽくなりました。

 ただ、参考になさる人は主治医に相談してからにしてくださいね。美容師さんにも事情を告げることが大事だと思います。私はウィッグカットもそこでしてもらっていました。買ったままだとどうもしっくりこない時は、カットしてもらうと顔に馴染むのでおすすめです。

 病気から学んだことは「新しい視点」です。がんを告知されてから治療が始まるまでの間に家族で買い物に行くと、周りが健康で幸せそうに見えて羨ましかったんです。でも、自分も外からは幸せな家族に見えていたはず。見た目からはわからなくても、重い疾患を抱えている人が周りにきっといるはずということです。何より私が命に執着し、治療を頑張れたのは子供たちの成長を見届けたかったからです。彼らからどれだけ元気をもらえたか計り知れません。なので、それまでは親として子に望むことがいろいろありましたけれど、全部そぎ落ちて、彼らの意思を尊重しようと思うようになりました。

(聞き手=松永詠美子)

▽おかざき・ゆうこ 1976年、東京都生まれ。97年、「イッセイ ミヤケ」に入社して広報部に勤務。3年後に退社し、茨城県の陶芸家・森田榮一氏に弟子入りする。4年半の修業後、茨城県笠間窯業指導所の釉薬科/石膏科を経て、2007年に神奈川県横須賀市で独立。展覧会活動のほか、雑誌やテレビ、調理器具メーカーとのコラボレーションを展開するなど幅広く活躍している。

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