上皇の執刀医「心臓病はここまで治せる」

外科医に欠かせない手術前の「手洗い」が大きく変わってきた

天野篤氏(C)日刊ゲンダイ

 忙しい外科医の手はゴツゴツしている――。皆さん意外に思うかもしれません。

 手術に臨む前、外科医は必ず入念な「手洗い」を行います。手術を数多く行っている経験豊富な外科医は、それだけ手を洗う機会も多くなり、手洗いの回数が多いと皮膚が厚くなってゴツゴツしたり、時には手荒れを起こすことがある……というわけです。

 それくらい、外科医にとって手洗いは重要です。とくに手に付着するブドウ球菌系の細菌は皮膚や創部の感染症に関与し、それ以外の大腸菌や腸球菌などは体内で膿を形成して敗血症を引き起こすきっかけをつくります。外科医の手から手術中に患者さんに感染して感染症を引き起こすと、命に関わることさえあるのです。もちろん医師だけではなく、看護師や臨床工学技士といった手術に関わる医療者にとっても、手洗いは欠かせません。

 そんな手術前の手洗いが、最近になって変わってきています。長く行われてきた消毒液=抗菌性スクラブ製剤を使ったブラシや手揉みによる手洗いから、アルコール製剤を擦り込む方法にシフトしているのです。

■硬いブラシが使われていた時代も

 15年以上前は、抗菌性スクラブ製剤を手に取って泡立て、硬い木のブラシを使って手洗いをしていました。10分くらいかけてブラッシングを3回行います。しかし、木のブラシには雑菌が残っているというデータからプラスチック製の使い捨てブラシに変わり、さらに3回のブラッシングが2回でも効果があることもわかり、時間が短縮されました。

 その後、硬いブラシを使用した過度のブラッシングは皮膚を傷つけ、傷口にブドウ球菌系の細菌が付着することによって感染リスクがアップする可能性が指摘され、数年前からはブラシを使わずに自分の手だけで抗菌性スクラブ製剤を用いて揉み洗いする方法に変わりました。

 それがさらに、今度は抗菌性スクラブ製剤ではなく一般的なせっけん液(非抗菌性せっけん液)で揉み洗いした後、アルコール製剤を擦り込む方法が行われるようになったのです。これによって、かつては10分近くかけていた手洗い時間が3分ほどに短くなりました。

 詳しく現在の手洗いの方法を説明すると、まず手指と前腕部を通常の水で流し、次に非抗菌性せっけん液を手に取って泡立て、指、手のひら、手の甲、指の間、手首、ひじ関節まで揉み洗いします。左右それぞれを洗い終えたら流水で泡を洗い流し、ガーゼで水分をふき取ります。その後、アルコール製剤を手に取って、指先、手のひら、手の甲、指の間、手首、ひじ関節まで擦り込み、それを左右2回ずつ行います。そのまま何も触れずに手術室に入り、看護師に手袋を着けてもらう――というのが手術に臨む一般的な流れです。

 それまで行われてきた手洗いの方法が変わったのは、科学的に確認された安全性を確保したうえで、コスト削減と環境への配慮という理由からでしょう。

 たとえば欧州では、手術前の手洗いは以前からせっけんと流水による予備洗浄の後にアルコール製剤を使う方法が行われていて、抗菌性スクラブ製剤を使った手洗いと比べても、細菌の感染発生率に差がないことが報告されています。日本でも、同じく両者の感染発生率に差は認められていません。こうした科学的なデータをベースに、より無駄を省いた手洗いにシフトしているのです。

 手洗いの最後に擦り込むアルコール製剤はすぐに乾燥するため、水分をふき取る必要がありません。それまでの抗菌性スクラブ製剤を使用した手洗いでは、最後に滅菌の紙タオルでふき取ります。滅菌タオルは1枚50円くらいの経費がかかり、それを1回の手洗いにつき2枚使います。執刀医だけでなく手術に関わるスタッフも滅菌タオルを使用するので、年間に換算すると1000万円以上となります。アルコール製剤を使う新たな手洗いで、それだけのコストを削減できるのです。

 また、化学的に合成された抗菌性スクラブ製剤に比べ、アルコールは最終的に水と炭酸ガスに分解されるので、下水に流しても自然に帰ります。環境にやさしいといえるでしょう。

 すべての病院の外科医が新たな手洗いに変わるにはもう少し時間がかかりそうですが、今後はさらにアルコール製剤を使った手洗いが広まるのは間違いありません。

 次回も手洗いについてさらにお話しします。

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天野篤

天野篤

1955年、埼玉県蓮田市生まれ。日本大学医学部卒業後、亀田総合病院(千葉県鴨川市)や新東京病院(千葉県松戸市)などで数多くの手術症例を重ね、02年に現職に就任。これまでに執刀した手術は6500例を超え、98%以上の成功率を収めている。12年2月、東京大学と順天堂大の合同チームで天皇陛下の冠動脈バイパス手術を執刀した。

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