がんと向き合い生きていく

肺がんで亡くなった祖母の手にはめられた白い手袋には紐がつながれていた

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 Fさん(45歳・女性)はすでにご両親を亡くされていて、夫とは5年前に離婚。いまは小学2年生の息子と2人暮らしで、自宅近くのスーパーに勤めています。

 そんなFさんが住んでいるアパートから徒歩10分ほどのところに、Fさんの祖母Kさん(94歳)が元気にひとり暮らしをしていました。

 Fさんは週1回のペースで訪問して、野菜を持っていったり食べ物を冷蔵庫に補充するなど、あれこれ世話をしていました。しかし、ここ1カ月くらいKさんは食事の時にむせる症状が出て、食事の量が減ってきていました。

 ある夜、Kさんから急に「息苦しい」と電話があり、救急車で近くの病院に運ばれてそのまま入院。この時、左の肺に水がたまっていることが分かりました。

 翌日、500ミリリットルほど抜いた胸水の中にたくさんのがん細胞が見つかりました。そして、1週間後、Fさんは担当医からこう告げられました。

「おそらく肺がんが進行して、胸水がたまったと考えられます。胸水がたまるということは、肺がんでもステージ4です。ご本人の負担になりますから、これ以上検査はしません。治療も意味がないと思います。食事も誤嚥するため取れない状況で、点滴をしています。ただ、ここは救急病院ですからずっと入院していることは無理です。どうしましょうか? 自宅に帰れば点滴なしでは1週間くらいの命だと思います」

 それを受けたFさんは「それでは他の病院に移してください」とお願いして、Kさんは数日後C病院に転院しました。そしていまはC病院で点滴を受けています。

 ある夜、Kさんは自分がどこに居るのかが分からなくなったようで、ベッドから降りようとして腕から点滴の針が抜け、シーツが血だらけになったそうです。するとその夜、点滴を外さないようにとKさんは白い手袋をはめられました。その手袋の先には白い紐がつながっていて、ベッド柵に縛ってあります。腕はある程度動かせるのですが、制限されています。

 翌日の夜、Fさんが病室を訪ねた時、Kさんが言いました。

「顔がかゆい。顔に虫がとまっている。顔がかゆい」

 しかし、手袋をしているKさんの手は顔まで届きません。

 Fさんはナースステーションまで出向き、「手袋は外せないでしょうか?」とたずねると、「おうちの方がいらっしゃる間は外せます。ただ、夜は看護と介護の職員が少なくてずっとは見守れないので、はめさせていただきました」と言われました。

 さっそく外してもらうと、Kさんは眠ってしまいました。

■「家に帰ろう」と言われたが…

 さらに、担当医からこんな説明も受けました。「スタッフとのカンファレンスで手袋が必要かどうかを検討しました。おうちの方にご了解いただきたいと思っていました。もう少し紐を長くしてみます。胃ろうも検討したのですが、外科では『胸水があって、胃ろうを作るのは危険』という意見でした」

 Fさんは、「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」と頭を下げて帰りました。

 2日後の夜、Fさんが再び病室を訪ねると、やはりKさんの手には手袋と白い紐がついていました。Fさんの顔を見たKさんは、「あ、迎えに来てくれた。家に帰ろう」と口にしました。さらに、「あなたではない。私にはS子という娘がいたのです。S子を呼んでください。私は家に帰るのです」と言うのです。

「私を誰だか分からなくなるなんて……」

 Fさんはとてもショックでした。しかし、このまま病院にお願いするしかない。「家に帰りたい」と言われても、どうすることもできませんでした。

 さらに数日が過ぎて、Fさんは息子を連れてKさんを訪ねました。その日は手袋をはめていませんでした。しかし、Fさんと息子がいくら呼んでも返事はありません。2日後、Kさんは亡くなりました。

 しばらくしてFさんがKさんの部屋の整理をしていると、たんすの一番上の引き出しに手紙が入っていました。

「Fちゃん、ありがとう。お世話になりました。本当にありがとう」

 手紙の日付は、苦しくなって救急病院に入院した、その日でした。

 Fさんは、Kさんがはめていた白い手袋とベッドにつながれた紐が、何年たってもずっと頭から離れません。

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佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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