上皇の執刀医「心臓病はここまで治せる」

マスク、術衣、空気清浄…外科手術は感染症との闘いでもある

天野篤氏
天野篤氏(C)日刊ゲンダイ

 前回、前々回と手術前の「手洗い」にまつわるお話をしてきました。それくらい、外科手術では感染症対策が重要です。

 近年、外科医にとって最大の敵といえるのが、「MRSA」(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)と「VRE」(バンコマイシン耐性腸球菌)という2つの耐性菌です。いずれも抗生物質が効かないため、院内感染が拡大すると患者さんの命に関わる危険が高い細菌です。

 MRSAは、人間や動物の体表面に常在するブドウ球菌が、メチシリンやマクロライドといった抗生物質に耐性を持ったものです。ブドウ球菌自体は15~30%くらいで皮膚に常在菌として居ついていますが、糖尿病やステロイド常用者などではMRSAとして耐性化していることもあり、抵抗力が落ちている患者に感染すると、産生される毒素によって肺炎、敗血症、心内膜炎といった重症感染症を引き起こします。

 また、傷口での院内感染を引き起こす原因の100%近くがMRSAといわれ、感染すれば確実に創部感染に拡大します。閉じた傷口が開いてしまって膿を持ち、敗血症を起こして3分の1が亡くなってしまうほど深刻な耐性菌です。

 VREは、MRSAの特効薬である抗生物質バンコマイシンをはじめ、現在、細菌感染症の治療に使われているほぼすべての抗生物質に対して耐性を持つ腸球菌です。腸球菌は、腸や生殖器に常在していて、ほとんどすべての人が持っています。通常は無害ですが、抵抗力が落ちている人が感染すると、腎盂腎炎、腹膜炎、敗血症、心内膜炎などを起こします。

 感染症を引き起こす細菌は、手術の種類によっても変わってきます。たとえば大腸の手術では、術野から細菌が出てくる可能性が高くなります。その多くは消化管内に常在するグラム陰性桿菌です。MRSAのようなブドウ球菌系ではないため、創部感染して閉じた傷口が開いてしまうようなケースは起こりません。しかし、グラム陰性桿菌はエンドトキシンという毒素を産生し、血流中や腹膜腔内などに侵入すると、ショック状態を引き起こしたり多臓器不全を誘発し、患者が死亡する危険性があります。

 つまり、行う手術によって感染症の原因になる細菌の種類や感染経路が変わってくるため、それぞれに応じた対策が必要になってきます。そうした感染対策の基本中の基本が手洗いであり、前回もお話しした手術用手袋の二重装着なのです。

■N95規格のマスクは30分で息苦しくなる

 もちろん、手術用マスクの装着も必須です。ただ、新型コロナ禍で一般でもよく耳にするようになったN95規格のマスク(0・3マイクロメートル以上の微粒子を95%以上捕集できるマスク)は通常では使いません。N95規格のマスクは気密性が高く、しっかり装着すると30分くらいで息苦しくなってしまうからです。中には、N95規格のマスクを装着して手術に臨む医師もいますが、話をするたびに「苦しい」と漏らしています。

 また、感染を防ぐために手術は空気中の細菌や塵を取り除く空調設備を備えた「クリーンルーム」で行われます。一般的な手術室は「清浄度クラスⅡ」という基準を満たした環境であることが求められ、かつての分類では「クラス10000」(1立方フィートの空気中に0・5ミクロン以上の粒子が1万個以下)が一般的です。

 ただし、人工関節置換手術などを行う整形外科では、「クラス100」の手術室を備えているところもあります。関節には細菌が存在しないため、いったん感染すると取り返しがつかなくなってしまいます。空気中の細菌が落下して感染を起こすリスクを絶対に回避しなければならないのです。

 高度な空気清浄に加え、医師やスタッフは宇宙服のような特殊な術衣を着用して手術に臨みます。術者からの細菌感染を防ぐため、手術用のヘルメットをかぶって頭部をすっぽり覆うのです。

 外科手術は、患者さんが抱える疾患と同時に、感染症との闘いでもあるのです。

天野篤

天野篤

1955年、埼玉県蓮田市生まれ。日本大学医学部卒業後、亀田総合病院(千葉県鴨川市)や新東京病院(千葉県松戸市)などで数多くの手術症例を重ね、02年に現職に就任。これまでに執刀した手術は6500例を超え、98%以上の成功率を収めている。12年2月、東京大学と順天堂大の合同チームで天皇陛下の冠動脈バイパス手術を執刀した。近著に「天職」(プレジデント社)、「100年を生きる 心臓との付き合い方」(講談社ビーシー)、「若さは心臓から築く 新型コロナ時代の100年人生の迎え方」(講談社ビーシー)がある。

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