独白 愉快な“病人”たち

1日でも長くリングに…格闘家のノブハヤシさん白血病を語る

ノブハヤシさん
ノブハヤシさん(C)日刊ゲンダイ
ノブ ハヤシさん(格闘家・42歳)=急性骨髄性白血病

 一度は良くなったのに再発して骨髄移植しているので、闘病は通算6年に及びました。しんどいときは何度もありましたが、「引退は復帰してから」にしたかったんです。おかげさまで、寛解した今も現役でリングに立っているんですけれど、当時の心境として「病気になってズルズル引退」っていうのは絶対にイヤでした。

 体調の異変は2008年の終わり頃でした。年明けにK―1の試合を控えていたのでトレーニングを続けていたものの、風邪っぽい症状が続いて調子が上がらずにいました。日を追うごとに症状がきつくなって、トレーニング中に眠気をガマンできずにソファで横になってしまうこともありました。当時、周囲からは「またサボってる。夜遊びしてるんちゃうか?」と思われていたようです。

 最終的には、自宅までの坂道を息切れして上れなくなりました。あとから思えば、それは極度の貧血症状だったのですが、風邪だと思っていたボクは近所の耳鼻科を受診したのです。処方された風邪薬で治るはずもなく、そのうち喉がプク~ッと腫れて2度目の受診。試合も近いし、さすがに心配になって先生に「血液検査をしたい」と訴え、大学病院を紹介してもらいました。

 大学病院で血液検査を受けると、耳鼻科から血液内科へと回されたので「困ったな」と思いました。というのも、格闘技では肝炎やエイズになると試合ができないルールがあり、血液内科と聞いて、まずそれが頭に浮かんだのです。それが、診断は「急性骨髄性白血病」でした。すぐさま医師に「治ったら試合できますか?」と尋ねたら、「できます」と言われました。それで、僕はむしろホッとしたんです。

 しかし、関係者は一気にザワついて、試合の中止やマスコミ対応で混乱したようです。なにより格闘技界で白血病といえば、急逝した故アンディ・フグ選手の記憶が強く、後から聞いた話ではみんなが最悪の事態を想像したようでした。

 即入院となって、無菌室での抗がん剤治療が始まりました。初回が一番危なかったみたいです。40度の高熱が出て、体がブルブル震えました。よくわからない先生が僕の周りにたくさん集まっているのを見て、「死ぬときってこうなるんだな」と思ったのを覚えています。

 でも、2回目以降はそんなこともなく、テレビなどで見聞きしていた症状も表れず、食事はずっと食べられました。看護師さんに「口の中を冷やしておくと口内炎ができにくい」と言われたので、ずっと氷を口にしていたからかもしれません。

 幸いなことに最悪の事態とはならず、抗がん剤治療は半年で終わり、7月には退院。僕も関係者も、その時点で少し白血病をなめていました。3カ月後の10月にはエキシビションで1ラウンドマッチをこなし、次の試合に向けて準備も進めていたのです。

■「引退するにしても復帰してから」としか考えていなかった

 そんな12月、定期的に受けていた「マルク」という骨髄検査で数値に異常が見つかり、「再発」を告知されました。体はすこぶる元気だったので「なんで?」という思いでした。

 こうなると、もう骨髄移植しか治療法がないそうで、「やるしかない」と決意しました。1月から入院して抗がん剤で半年かけて自身の免疫力を徹底的にやっつけて、“僕をゼロ”の状態にしてから移植手術となりました。そうしないと新しい骨髄を“僕”が攻撃してしまうからです。

 僕がラッキーだったのは、徳島に住む姉と白血球の型が合ったこと。ドナーがすぐに見つかったことで手術のめどが立ち、スムーズに移植ができたのです。僕の体が大きいので骨髄もたくさん必要だったらしく、姉は可能な限りギリギリ目いっぱい取られたようです。

 それでも、僕が「また頼むわ」と冗談ぽく言うと、姉はカッコよく「また、やるわ」と言ってくれました(笑い)。こんなことはもうないように気を付けなければと思っています。

 移植後、1カ月ぐらいで退院となりましたが、免疫力がほぼゼロなので、その後の生活の方が大変でした。生魚、生野菜といった生モノはダメ、常にマスクで人混みもNG。通院以外はずっと家にいました。

 そこから復帰までの5年の間には、K―1が倒産したり、支援してくれた方が亡くなったり、いろんなことがありました。僕は僕で、選手のセコンドについて現場の感覚を取り戻しつつあった矢先に肺炎になって入院したり……。その入院もかなりしんどかったです。でも、「引退するにしても復帰してからだ」としか考えていませんでした。

 おかげさまで、復帰戦は世界トップクラスの選手との試合がかない、玉砕はしたものの達成感がありました。今はチャンピオンを目指すのではなく、一日でも長くリングに立つことが使命だと思っています。

 それまで、僕は「骨髄バンク」のことなどなにも知りませんでした。だからこそ、今はいろんな人に知ってもらうためにチャリティーなどに参加しています。輸血もたくさんもらったので、献血の呼びかけも折に触れて続けたい。自分がリングに立っていないとそういう活動もできないので、続けられるように体調管理しています。

「ていねいに生きる」

 それが大事なことだなと思っています。

(聞き手=松永詠美子)

▽1978年、徳島県生まれ。高校卒業後、単身オランダに渡り、格闘技ジムの名門「ドージョー・チャクリキ」の門をたたく。99年に「逆輸入ファイター」として帰国し、99年と2004年のジャパングランプリで準優勝を果たす。04年には「チャクリキ・ジャパン」をオープンして総本部館長に就任。09年に急性骨髄性白血病が発覚するも不屈の精神で14年12月に復帰戦を行い、現在も現役を続けている。骨髄バンクの活動にも尽力し、「日本骨髄バンク公式YouTube」で本人の応援メッセージ動画が期間限定で公開中。

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