上皇の執刀医「心臓病はここまで治せる」

日本の医療文化は世界的にも正しいモデルのひとつといえる

天野篤氏
天野篤氏(C)日刊ゲンダイ

 心臓手術を受けた患者さんはただでさえ不安を抱えています。そこに、偶発的な合併症が重なってしまうと、たとえ事前にリスクについて説明を受けていたとしても、不満やガマンが蓄積されて爆発し、トラブルに発展する可能性があります。

 それを避けるためには、医療者側が「医療安全」の考え方に沿いながら、局面に応じてその都度、角度を変えた説明を丁寧に行うことが重要になる。前回、お話しした内容です。

 近年、医療者側にはよりきめ細かな対応が必要な状況になっています。患者さん側からの“クレーム”が増えて、トラブルが起こりやすくなっているからです。まず、インターネット環境が整ったことで情報が入手しやすくなり、患者さん側の権利意識が高くなっているのが、その理由のひとつでしょう。

 さらに、患者さんが全体的に高齢化していることも関係しています。高齢者は悪くなっている心臓以外に既往症を抱えていたり、ほかの臓器や全身状態が良くないケースがほとんどです。そのため、心臓手術が問題なく終わっても新たな合併症を起こすリスクが高く、トラブルに発展しやすい土壌があります。事前に説明を受けていても、実際に合併症が起こってしまうと、どうしても不安、不満、ガマンがたまっていくのです。

 また高齢の患者さんの場合、本人との関係には大きな問題がなくても、その家族との間でトラブルに発展するケースもあります。われわれ医療者は、患者さんの年代に応じて「この年齢ならば、こんなリスクがあって、こういう合併症が起こりやすくなる」ということがわかっています。患者さん本人も、自分の体があちこち衰えていると自覚していますし、事前に説明を受けてきちんとリスクを把握している人は多くいらっしゃいます。

 しかし、患者さんの子供や孫の世代は、自分が高齢になったときの体の状態を知りません。そのため、医療者側の説明を理解できていないケースがあるのです。

「医療安全」に沿った対応は、こうしたトラブルを起こさないようにするためのもので、治療をスタートする前の段階から、きちんとした手続きを重ねていかなければなりません。これまで医療はどちらかというと「サービス」である部分が大きかったのですが、より「契約」という要素が強くなってきたといえます。医療安全はそうした契約を監視するシステムなのです。

■「医療安全」に対する考え方が成熟している

 残念ながら、それでもトラブルは起こってしまいますし、最悪の場合は訴訟に発展するケースもあります。それでも、日本の医療安全に関する“文化”はかなり成熟しているといえるでしょう。とりわけ、中国やベトナムといった医療途上国といえる国では、まだまだ「患者さんを守る」という意識が低く、医療安全の手続きも確立されていない状況です。

「すべての国民に一定水準以上の平等な治療が提供される」という日本の国民皆保険制度は、世界的にみても手厚く整備されています。医療安全も含め、日本の医療者は、自分たちは世界の手本になるような正しい医療モデルのひとつを実践しているという自覚を持って、さらにより良い医療文化を築いていく姿勢で取り組んでいくことが大切です。

 国民皆保険制度ではない米国では、患者さんが加入している民間保険によって、カバーしてもらえる医療の範囲が変わってきます。簡単にいえば、保険料が安いタイプでは治療費が高額になって受けられない医療がたくさんあるということです。そのため、医療者側は「この患者は医療費を払えるのか、払えないのか」という2つの視点で患者さんを判断します。

 ですから、米国は医療は契約という意識が強く、医療訴訟も数多く起こります。患者さん側が医療者に対してただ難癖をつけているだけのような訴えや、行われた治療によって健康被害があったわけではないのに、自分が受けた扱いが不当だったとして訴訟を起こすケースもあります。

 医療訴訟を専門にして商売をしている法律家がたくさん存在するという理由も大きいのですが、患者さん側の権利意識が強いため、そうした法律家が「もっと権利を主張するべきだ」とあおりやすい環境だといえるでしょう。

 日本でも、以前に比べて患者さんの権利意識については時に自分の仕事や立場を守るために自己主張を強くする傾向がみられますし、医療訴訟を専門にしている法律家もいます。しかし、米国のような状況になっていないのは、国民皆保険制度と医療安全という医療文化が成熟しているからだと考えています。

天野篤

天野篤

1955年、埼玉県蓮田市生まれ。日本大学医学部卒業後、亀田総合病院(千葉県鴨川市)や新東京病院(千葉県松戸市)などで数多くの手術症例を重ね、02年に現職に就任。これまでに執刀した手術は6500例を超え、98%以上の成功率を収めている。12年2月、東京大学と順天堂大の合同チームで天皇陛下の冠動脈バイパス手術を執刀した。近著に「天職」(プレジデント社)、「100年を生きる 心臓との付き合い方」(講談社ビーシー)、「若さは心臓から築く 新型コロナ時代の100年人生の迎え方」(講談社ビーシー)がある。

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