独白 愉快な“病人”たち

義眼のパーカッショニスト富田安紀子さん「病気には甘えない」

富田安紀子さん
富田安紀子さん(提供写真)
富田安紀子さん(パーカッショニスト/29歳)=ぶどう膜炎・白内障

「ぶどう膜炎」は、ぶどう膜とその周辺に炎症が起こる目の病気です。ぶどう膜は、光の調節をする虹彩、ピントを合わせる毛様体、栄養を運ぶ脈絡膜からなる血管の多い組織のこと。私は白内障を併発して、左目は失明して義眼となり、右目も視力が不安定で通院しています。

 始まりは小学2年生の頃です。教科書が二重に見え始めておかしいなと思っていたら、ある日、目が真っ赤に充血しました。母と一緒に眼科に行くと、「虹彩炎」と診断されて目薬と飲み薬が処方されました。

 一時はそれで治ったように思えたのですが、再びモノが見えにくくなってきたので違う病院を受診しました。なかなか病名が分からず、地元の岐阜県を中心に東海3県の病院を転々としました。

「ぶどう膜炎」とわかったのは名古屋の病院でした。ただ、いろいろな検査で全身を調べたものの原因は不明のまま。ぶどう膜炎に関して優秀な先生がいるという大阪の病院で治療することを決め、月2回通院しました。

 4年生の終わり頃になると、両目とも全盲に近いくらいの状態でした。お茶碗のごはん粒が見えないので指で探りながら食べたり、学校は家族に送り迎えをしてもらって、校内もひとりで歩けないので誰かに手伝ってもらっていました。授業ももちろんついていけません。担任の先生に「本当は行ってほしくないけれど……」と、泣きながら盲学校を勧められたのはその頃でした。

 4月から5年生になる春休みに白内障の手術を受けて、人工レンズになりました。左目の視力は復活しませんでしたが、右目は少し復活して現在に至っています。

 5年生で盲学校に編入したものの、手術で盲学校に通うほどではなくなってしまい、6年生から再び普通学校へ戻りました。

 とはいえ、教科書の文字は読みづらく、母に拡大コピーをしてもらっていました。通常、文字は眼鏡をかけた上に虫眼鏡を使い、さらに置き型ルーペをのぞき込んでやっと読める状態なので、テストも制限時間内には終わらず、成績は下の方。ただ、1年間かけて小説を1冊読み切ったことだけは、自分で頑張ったなと思っています。

 目の病気を一番恨んだのは高校時代です。メークやおしゃれのお年頃なのに、自分はメークしても目の大きさが違うのでうまくいかないんです。そう、見えない左目の眼球は萎縮してだんだん小さくなるんです。だから、常に前髪で左目を隠していました。

 ただ、大学には行きたかったので成績の悪さを内申点でカバーしようと生徒会に入りました。おかげさまで大勢の前で話す度胸がついて、今につながっています。

■立ちはだかる壁はすべて人生のネタになる

 左目に義眼を入れたのは26歳のときです。短大で介護福祉士の資格を取って、すでに介護施設で働いていました。小学4年生からずっと診ていただいている先生から義眼を勧められたときは、「ついに来たか。人生終わったな」と思いました。先生は「義眼にしたほうがもっときれいになれるよ」と美容の観点から提案してくれましたが、私は左目が治る可能性を捨てていなかったので、「そうか……もう治らないんだ」と少なからずショックだったのです。

 そんな私をよそに、横から「お願いします。義眼入れてください!」と即答したのは母でした。「勝手になに言ってるの?」と思いましたよ。でも、「本来のかわいい顔をもう一度見たい。堂々と顔を出して生きていってほしいから」と言われ、しぶしぶ承諾。その後、眼球にかぶせる義眼があると知ってホッとしました。眼球をくりぬいてしまうものだと思っていましたが、私の場合はかぶせる義眼でOKだったので、今では母に感謝しています。

 自分に自信が持てるようになって、相手の目を見て話せるし、相手も私の目を見て話してくれるようになりました。今の事務所のオーディションを受けて芸能活動をするようになったのも義眼になってから。自分が経験したことや感じたことを発信して、ひとりでも多くの方にエールを送りたいんです。

 いじめにあったこと、死にたくなったこと、お腹に包丁を当てたこともありました。でも、家族の支えやいい友達に出会って、極上の幸せも味わいました。今思うのは、そんな幅広い感情を味わえたのも目の病気のおかげだということ。きれいごとではなく、障がいを持ったことは神様からのプレゼントだと思っています。

 この先、右目もどうなるかわかりません。現在は免疫抑制の注射と、人工レンズが曇ってくるのをレーザーで飛ばす治療を続けていますが、瞳孔が癒着しているので明るいとまぶしいし、薄暗い場所はひとりで歩けません。頭痛も頻繁にありますし、転んだり、何かにぶつかるのも日常茶飯事です。でも、つらいことや立ちはだかる壁は、すべて人生のネタになると思っています。だから病気に甘えず、これからも幅広くチャレンジしていきます。

(聞き手=松永詠美子)

▽とみだ・あきこ 1991年、岐阜県生まれ。4歳から始めた和太鼓「山代流」の師範資格を持つ和太鼓奏者であると同時に、さまざまなリズム楽器を奏でるパーカッションパフォーマー。他にもトークショー、ファッションモデル、コラム執筆などマルチに活躍している。26歳で左目が義眼となるも、2019年からNHK視覚障害ナビ・ラジオ「リンク・スクエア」(ラジオ第2放送)のパーソナリティーを務めている。ココダイバーシティ・エンターテイメント所属。

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