がんと向き合い生きていく

進化した大腸内視鏡検査を受け研修医時代と恩師を思い出す

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 先日、大腸内視鏡検査を受けました。検査2日前からの食事制限や下剤を内服しての前処置などが必要で、それなりの負担はありましたが、検査そのものは苦しいことはまったくありませんでした。

 内視鏡検査を行ってくれた医師は、検査中に「大丈夫ですよ」「もう、上行結腸を見ていますよ」「もう少しで終わりますよ」など、受検者である私の緊張をほぐしながら各部位の写真を撮り、10分程度でまったく苦痛なく検査を終えることができました。

 検査が終わってホッと一息ついた私は、安静室で残りの点滴が終わるのを待ちながら、昔の内視鏡検査を思い出していました。

 もう、50年以上も前のお話です。学生だった私が外科の臨床実習中に内視鏡検査の見学をしている時のことでした。患者は女性で、直腸がんを疑われていました。スカートのような検査着を着用し、検査台の上で左側臥位(左側を下にして横向きに寝た状態)となったその女性に対し、検査医が真っすぐな筒状の鋼製直腸鏡を肛門から挿入していきます。

 その瞬間、女性が「痛い!」と声を上げました。すると検査医が「ガキ(子供)産んだことあるんだろ! この!」と叫んだのです。なんという失礼な言葉なのでしょうか。今でも忘れられません。

 それから4年ほど後、某がん専門病院でこんなこともありました。私は内科の研修医で、気管支鏡検査の見学をしていました。検査台に仰臥位(あおむけ)になった男性患者が、顎をいっぱいに上げて大きく口を開かされています。そして、そのまま長い真っすぐな鋼製の筒(当時の気管支鏡)を口から入れられました。口腔や気管は麻酔されていたと思いますが、患者は声も出せず、手をバタバタさせています。きっと苦しいのでしょう。

 そんな患者に対して、筒をのぞいている医師は「ガマンしろ!」と叫びました。カルテを見ると、患者は某大学の学部長さんでした。

 私には、検査を担当していた医師がとても傲慢に思えました。そんな器具しかない時代であり、一人一人に優しくしていたら検査はできないのかもしれませんが、せめて、いたわりの言葉があってもいいのにと思いました。あの時、検査を担当していた医師に対してどうこう言うつもりはありません。ただ、当時の私は、「医師は上位にいて、患者は下位にいる……この検査は拷問だ。患者になるということは、こんな苦痛を受けなければならないのだろうか……」と思わされたのです。

■グラスファイバー製の開発で苦痛が激減

 実はその頃を前後して、内視鏡は鋼製ではなくグラスファイバーが使われるようになり、患者の苦痛は激減し、検査法も大きく進歩しました。

 大腸検査では当時、弘前大学の内科に所属していた田島強医師らの努力がとても大きかったと思います。田島医師は、交通の便が悪い弘前の田舎から、何時間もかけて東京の内視鏡を製作する会社に何度も出向き、1969年にとうとう大腸ファイバースコープを開発しました。世界で初めて回盲部を内視鏡で見ることに成功したのです。

 田島医師のところには、その技術の教えを請う医師が全国から集まりました。当時の私は同大学を卒業したばかりで、研修医を務めていました。夕方の検査が終わって夜8時すぎになると、弘前の土手町に足を運び、田島医師と一緒に安い酒場で飲みながらさらに教わり、夢を語り合いました。

 医局に入った若手の中に夕方早く帰宅する者はいませんでした。医局の長椅子に離れて座っていても、夜、医局にいること、先輩たちの雑談を聞いていること、それらすべてが良きにしろ悪しきにしろ勉強でした。そんな中で、学会発表のスライドの作り方や論文の書き方なども教わりました。時代とともにこのような勉強方法(?)は敬遠されるようになりましたが、私にとってはとても有意義な時間でした。

 内視鏡検査は、今ではAI(人工知能)が技術を補助し、さらに正確な診断にICT(情報通信技術)が加わるといった時代になりつつあります。

 より苦痛がなく、より正確な診断を目指し、内視鏡検査はまた大きく変わろうとしています。

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

関連記事