がんと向き合い生きていく

初孫ができて思い出す乳がんで亡くなった女性患者の言葉

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 私の部屋の中、机の周りは本や資料などの印刷物でいつも散乱し、家人から「断捨離」を勧められています。私自身も「そうだな。こんなものを残しても意味がない」と、その時は捨てるのですが、気付くとまた、たまってきます。

 特に医学の古い文献などは、「もう役に立たない。あの時は苦労して書いた論文も、残しておいても誰も読んではくれないだろう。集めた論文、自分で書いた論文、あれも捨てる、これも捨てる……。少なくとも10年間も放ってある論文は今後も見ないだろう」と、そう思って少しずつ減らしました。

 不要不急の外出はするなと言われ、それなら時間もあってはかどるはずの部屋の整理・整頓は、逆にうまくいかず、それを他人のせいにしている自分に腹を立て、相変わらず自己肯定と否定の堂々巡りです。

 頑張って書いた思い出のある論文も、「別刷りの一部だけは残しておこう」と考えるようにして、どんどん捨てていきました。ところが1年前、私に初孫ができてからは「断捨離」のスピードが鈍ってしまいました。

 息子夫婦から送られてくる孫の動画を見ていると、「もしかしたら、この子が大きくなった時に読んでくれるかもしれない」「爺はこんなことを考えていた。こんな本を読んでいた。こんなことを書いていた……そんな興味を持ってくれるのでは」などと考え、「この別刷りは、この本は残しておこうか」という思考が頭をよぎるのです。

 そんな爺になった私が思い出すのは、乳がんで亡くなったFさん(65歳)という女性患者のことです。入院していた病室の枕元には3歳くらいのお嬢さんの写真が飾ってあり、こんなお話をされていました。

「私のがんは全身に進んでしまったし、死ぬのが怖いとか、生きていたいとか、そんなふうには思いません。ただ、この孫と別れるのがつらい。こんなかわいい孫とは別れたくない。小さな子は3歳までに恩を返してくれると聞いたことがありますが、それは本当だと思います。孫が世界で一番かわいいのです。こんなにかわいいと思うのは、やはり血がつながっているからでしょうか?」

■生命は受け継がれていくことに救いがある

 宗教学に造詣の深い哲学者の梅原猛さんは、日本緩和医療学会特別講演で次のような話をされました。

「私たちの生命の中には永遠の生命がやどり、それが子孫に蘇っていく。自分は死んでも、遺伝子は生きていると考えれば、生命は連続的なものと科学的に考えることができる。この考えに立つと、がんの末期の人、死にゆく人々に対峙する時、慰めの心を持って対話ができるのではないか。この世の生命は受け継がれていくことに救いがある。生命は連続したものだという立場から自然な対話ができる」

 梅原さんの「この世の生命は受け継がれていくことに救いがある」という言葉が、今になって身にしみるのです。

 34年前、私が担当していて胃がんで亡くなったSさんの奥さまから、先日メールが届きました。その当時、奥さまは大変苦労されたと思うのですが、幸せそうに「今、孫たちは大学生4人、高校生3人、そして一番チビさんもこの4月から中学生です」と報告してくださいました。一緒に送っていただいたご家族の集合写真を目にして、「こんな幸せな方もおられるのだ」と思いました。

 新型コロナウイルスの流行で突然に不幸になった方がたくさんおられることを思うと、初めて爺になった私が孫に会えずにいて、写真や動画でガマンしているのは当然の話です。それでも、孫に触れてみたい、風呂に入れてみたい。そう思うのです。

 癌研究会付属病院(現がん研有明病院)の院長だった西満正氏は、小児科病棟を回診して「幼子の匂いに勝るものなし」と詠みました。血がつながっているとか、DNAがつながるとは、天からいただいた“心の魔術”なのでしょうか。閉塞感の中でも、目に見えない元気をくれるのです。

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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