上皇の執刀医「心臓病はここまで治せる」

ガイドライン改訂「マイトラクリップ」について思うこと

天野篤氏
天野篤氏(C)日刊ゲンダイ

 昨年、日本の「弁膜症治療ガイドライン」が改訂されました。中でも、僧帽弁閉鎖不全症に対する治療が大きく変更されています。

 僧帽弁閉鎖不全症は、心臓の中にある僧帽弁がうまく閉じなくなって血液が逆流してしまう疾患です。加齢などによって僧帽弁が劣化した結果、逸脱したり、硬化するといった弁自体の病変で起こる「一次性」と、心不全や慢性心房細動に併発して表れる「二次性」があり、今回の改訂では「二次性」の治療について変更が加えられました。

 僧帽弁閉鎖不全症の治療は、まず薬物治療で経過を観察し、心不全の症状をうまくコントロールできなかったり、2枚の弁をつないでいる「腱索」という組織が切れて弁がそっくり返ってしまっているような重症な状態が心臓エコー検査でわかった段階で、弁を形成したり交換する外科手術を行うのが一般的でした。

 しかし近年、カテーテルを使う「マイトラクリップ」という治療法が登場しました。先端にクリップの付いたカテーテルを下肢の静脈から挿入して僧帽弁に到達させ、ずれてうまく閉じなくなっている2枚の弁の両端をクリップで留める治療法です。弁の不具合による血液の逆流は、ほとんどが弁の中心から起こるという特徴があるので、弁の中心付近をクリップで留めれば逆流が改善されます。

 開胸しなくても済む低侵襲な治療で、実施する医療機関が増えてきたこともあり、今回の改訂では、薬物療法などの内科的治療でも心不全がコントロールできない場合の治療法として、マイトラクリップが選択肢に加えられたのです。

 僧帽弁閉鎖不全症が重症化して心不全が悪化する前に、負担が少ない治療法を行えるようになったことで、患者さんは大きな恩恵を受けられるといえるでしょう。しかし一方で、患者さんにとって不利益になる状況を招く可能性も考えられます。

■高額な医療費が増える懸念も

 ガイドラインで、薬物治療後の早い段階でマイトラクリップが選択肢として認められた。となると、これから重症化する可能性がある患者さんを多く見つければ、それだけ多くマイトラクリップを実施できるということです。すると、これまでは薬物療法をしながら聴診器を当てる程度の検診で問題なかったようなケースでも、軒並み心臓エコー検査を行って病変を見つけ出し、マイトラクリップを実施する方向に持っていく医療機関が出てくる恐れがあります。

 改訂されたガイドラインではまだそこまで踏み込んではいませんが、いずれ、何か心臓にトラブルがある患者さんに対して過剰な検査を行い、「将来的に僧帽弁閉鎖不全症が悪化するリスクがあります。今の段階でマイトラクリップをやっておいた方がいいですよ」などと誘導するケースが出てくる可能性が考えられます。もしそうなれば、本来なら必要のない高額な医療費を支払う患者さんがどんどん増える事態にもなりかねません。

 さらに深く考えると、医療機器メーカーの“思惑”も見え隠れしています。ガイドラインでマイトラクリップが適用となる患者さんが増えれば、それだけ治療器具(デバイス)が売れることになります。また、マイトラクリップを行う患者さんを見つけるにはそれなりのエコー機器が必要ですし、早い段階でマイトラクリップを実施するためにハイブリッド手術室を設置しなければならない施設要件もあるでしょう。

 最新のエコー機器を導入するとなれば定価で十数億円、ハイブリッド手術室は定価が二十数億円ですから、莫大なお金が動きます。その分、医療機関側はマイトラクリップを実施する患者さんを増やして医療費を徴収し、早めに減価償却する必要が出てきます。

 ガイドラインというのは、いわば治療における“世論”といえます。新たに世論形成する裏では、常に「ヒト・モノ・カネ」が動いているものなのです。

 もちろん、該当する治療に、大規模データに基づいたエビデンス(科学的根拠)がなければガイドラインでは認められません。そして、その治療を実施するために多額なお金が動くとしても、患者さんを含めた人類が受ける恩恵のほうが大きければ、それは「正しい」ということになります。

 今後、さらにマイトラクリップの有効性と改良が確認され、患者さんに大きなプラスになることを期待しています。
■本コラム書籍化第2弾「若さは心臓から築く」(講談社ビーシー)発売中

天野篤

天野篤

1955年、埼玉県蓮田市生まれ。日本大学医学部卒業後、亀田総合病院(千葉県鴨川市)や新東京病院(千葉県松戸市)などで数多くの手術症例を重ね、02年に現職に就任。これまでに執刀した手術は6500例を超え、98%以上の成功率を収めている。12年2月、東京大学と順天堂大の合同チームで天皇陛下の冠動脈バイパス手術を執刀した。近著に「天職」(プレジデント社)、「100年を生きる 心臓との付き合い方」(講談社ビーシー)、「若さは心臓から築く 新型コロナ時代の100年人生の迎え方」(講談社ビーシー)がある。

関連記事