人生に勝つ性教育講座

梅毒上陸と天才軍師・黒田官兵衛 死の直前は奇行が目立った

官兵衛同様、「不敗」の城とも呼ばれる姫路城
官兵衛同様、「不敗」の城とも呼ばれる姫路城(C)PIXTA

 梅毒は、1493年に新大陸への旅を終えたコロンブスらがスペインに持ち帰ったとされています。その一方で、石器時代から欧州には存在したとの説もあり、はっきりしません。ただ、1490年代までは欧州では目立った病気でなかったのは事実です。

 では、この厄介な性感染症はいつ、どのようにして日本に入ってきたのでしょうか? 有力視されているのは、ポルトガル人探検家のバスコ・ダ・ガマが喜望峰を通って初めてインドへの航路を「発見」した際にアジアに持ち込まれ、インドネシア、中国、琉球(沖縄)を経て、日本に到達したという説です。

 梅毒の日本への伝来は、種子島に鉄砲が伝わった1543年よりも30年以上も前だと言われています。中国の明に留学して医学を修めた名医・竹田昌慶の孫で、京都に住んでいた竹田秀慶という医師が書き残した「月海録」に梅毒の記述があります。これが梅毒が記録された日本最古の文献とされています。1512年のことです。それには、京都地方に「唐瘡」または「琉球瘡」と呼ばれる特有の病が流行してきたと書かれています。当時、日本と活発に交流していた明から中国人や琉球人の商人が持ち込み、博多や堺の商人を通じて日本全国に広まったのではないか、と考えられているのです。

 その中には有名な武将もいたと考えられます。その1人が、NHKの大河ドラマにもなった黒田官兵衛(1546~1604年)です。生涯無敗を誇った戦国武将は豊臣秀吉の天下取りを手助けした名軍師とされながら、その秀吉をして「黒田のカサ頭は気が許せぬ」と言わしめた才人です。キリシタン大名としても有名でした。

■治療薬を服用していた?

 その官兵衛はなぜ梅毒が疑われているのでしょうか? 官兵衛は若い頃、貿易港として栄えた堺を訪れており、ポルトガル出身のカソリック司祭であるルイス・フロイスが布教活動をしていた南蛮寺に立ち寄ったとも言われています。先に申し上げたように、梅毒は貿易と一緒に日本に上陸したと考えられるため、官兵衛が感染する可能性があったとしても不思議はありません。

 また官兵衛は、秀吉の軍師だった頃、敵方に寝返った荒木村重という武将を元に戻るよう説得しに行き、捕らえられて1年余り牢獄に幽閉されます。その時、今でいう骨髄炎・骨膜炎を患い、それ以降、膝が曲がったままだったとされています。実はこれも幽閉が原因でなく梅毒のせいではないかと疑われているのです。

 坂口安吾の小説の中で、官兵衛は「頭一面白雲のような頑疾」があるとされています。あるいは官兵衛が頭巾を常用したのは、それを隠すためだったのではないでしょうか。

 一番の有力証拠は、1592年の朝鮮出兵の途中で腫れものがひどくなり、途中で帰国したことです。官兵衛の帰国で秀吉軍の旗色は悪くなり、秀吉は激怒したと言われています。帰国する直前、官兵衛は秀吉の甥の秀次に宛てた手紙に、「山帰来」という薬を服用していると書いています。この薬は水銀中毒で起きるけいれんや神経異常を緩和するための漢方薬とも言われています。水銀治療は当時、梅毒の最先端治療で宣教師が伝えたとも言われています。

 晩年の官兵衛は、突然理由もなく家臣をしかり飛ばすなど奇行が目立ったそうです。これも梅毒の末期に見られる脳梅毒だった可能性があります。

 歴史に「もし」はありませんが、もし官兵衛が梅毒でなかったら、今の日本も違ったものになっていたかもしれません。性感染症は歴史を動かす力があります。若い頃の奔放な行動は若気の至り、だけでは済まないのです。

尾上泰彦

尾上泰彦

性感染症専門医療機関「プライベートケアクリニック東京」院長。日大医学部卒。医学博士。日本性感染症学会(功労会員)、(財)性の健康医学財団(代議員)、厚生労働省エイズ対策研究事業「性感染症患者のHIV感染と行動のモニタリングに関する研究」共同研究者、川崎STI研究会代表世話人などを務め、日本の性感染症予防・治療を牽引している。著書も多く、近著に「性感染症 プライベートゾーンの怖い医学」(角川新書)がある。

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