人生に勝つ性教育講座

棺桶を担いで世界旅行した英国の有名政治家チャーチルの最後

息子のウィンストン・チャーチル元首相
息子のウィンストン・チャーチル元首相(C)World History Archive/ニューズコム/共同通信イメージズ

 有名政治家にとって病気は“致命傷”です。ましてその病気が梅毒だったら、本人はもちろんその妻は秘密を守るためにどれほど心配し、必死になるでしょうか? 英国を代表する有名政治家であるランドルフ・チャーチルの妻ジェニーは、その心境を妹への手紙の中でこう表現しています。

「これまでのところ、大衆、社交界の人々でさえ、真実は知りません。この半年、私はすべてを犠牲にし、みじめな気持ちでいたのですが、事実が知られたら、つらいことでしょう。真実が知られれば、彼の名声や評価は計り知れず傷つくでしょう。私たちは誰もが嫌な思いをするにちがいありません」

 ランドルフ・チャーチルは19世紀後期の英国の政治家です。マールバラ公爵の三男として生まれ、25歳から庶民院議員となり活躍。父親がアイルランド総督を務めたことからアイルランド問題のエキスパートとなり、保守党内で頭角をあらわします。演説がうまく「討論のヒーロー」と呼ばれ人気があったようで一時はインド担当相や蔵相を務め、首相を目指していたと言います。かなり有力な政治家だったといえます。しかし病魔に勝てず46歳で亡くなります。英国では有名な政治家のひとりですが、日本では、第二次世界大戦を勝利に導いた英国首相ウィストン・チャーチルの父親と言った方がわかりやすいかもしれません。

 先述したように、ランドルフ・チャーチルは梅毒に罹患し、晩年はそのせいで激高したり、傍若無人な態度を取ったり、演説自体も混乱したそうです。誰の目にも深刻な病に冒されていることが明らかになり、医師団から「少なくとも1年間は政治の世界から離れるように」とアドバイスされます。表向きは転地療養ということでしたが、医師団は彼の妻に「余命1年」の宣告をしており、妻もそのまま英国に留まり彼の評判が悪化するのを避けたいとの思いがあったようです。

 そこで最終的にランドルフ・チャーチルは妻を伴い世界一周旅行に出かけます。ニューヨーク、サンフランシスコを経て日本に向かった一行は横浜に上陸。当時は日清戦争の最中であったため物々しい中での日本観光でしたが、箱根の富士屋ホテルに3週間滞在した後、東京、日光、京都を巡り、神戸から香港、中国、シンガポールなどを訪れます。旅行中、死ぬことも考えて棺桶を持参しての旅行だったそうです。また、旅行中に常に自分の偉大さを語り続け、妻が目を離しそうになると、銃を突きつけて目を離すなと命じたともいわれています。

 その後、体調を崩したランドルフ・チャーチルは昏睡状態で帰国。その1カ月後の1895年1月24日早朝に妻と母親、息子のウィストンとジョンらに看取られ亡くなります。

 残念ながら死後のランドルフ・チャーチルの評価は必ずしも良いとはいえなかったようです。それは討論でのヒーローではあっても政治的業績を残していない、とみられていたからです。そこで息子のウィストン・チャーチルは自ら父親の伝記を執筆し、見事に父親の名誉を守ったのです。

 ちなみにランドルフ・チャーチルは梅毒の罹患を知ってから妻との夜の営みは断ったといわれ、ウィストン・チャーチルに影響が及ぶことはなかったそうです。

尾上泰彦

尾上泰彦

性感染症専門医療機関「プライベートケアクリニック東京」院長。日大医学部卒。医学博士。日本性感染症学会(功労会員)、(財)性の健康医学財団(代議員)、厚生労働省エイズ対策研究事業「性感染症患者のHIV感染と行動のモニタリングに関する研究」共同研究者、川崎STI研究会代表世話人などを務め、日本の性感染症予防・治療を牽引している。著書も多く、近著に「性感染症 プライベートゾーンの怖い医学」(角川新書)がある。

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