上皇の執刀医「心臓病はここまで治せる」

「噛む力」は心臓にかかる負担の大きさに関係している

天野篤氏
天野篤氏(C)日刊ゲンダイ

 噛む力=咬合力が弱い人は心臓疾患になりやすい、という研究報告があります。

 国立循環器病研究センター、新潟大学、大阪大学の共同研究チームが、大阪府の吹田市民を対象としたコホート研究を解析したもので、50~79歳の一般住民のうち歯科検診を受診した1547人を追跡したところ、噛む力=最大咬合力が低い人は、高い対象者に比べて循環器疾患の新規発症リスクが最大5倍も高いことがわかったのです。

 なぜ、噛む力が弱くなると心臓疾患を発症しやすくなるのかについては、まだはっきりしたことはわかっていません。ただ、「しっかり噛む」という動作そのものが心臓に影響を与えていることが考えられます。

 食事をするなどして上下の歯を合わせて噛む動作をすると、「噛んだ」という情報が脳に伝わり、次に消化吸収を促進させようとします。このとき、活発に働くのが副交感神経です。

 人間が生命を維持するために欠かせない呼吸、血液循環、体温調節、消化、排泄といった機能は自律神経によってコントロールされています。自律神経は、交感神経と副交感神経のバランスで成り立っていて、交感神経は活動時や緊張状態で優位になり、副交感神経はリラックスしているときに優位になります。

 交感神経が優位な状態ではアドレナリンが分泌されて心拍数増加や血管収縮による血圧上昇が起こり、心臓の負担が増えて動脈硬化が促進されてしまいます。

 一方、副交感神経が優位になると、心拍数が抑えられ、血管が拡張して血圧も低下し、心臓の負担は少なくなります。日頃からしっかり噛むことができる人は、副交感神経が優位になる状態が多くなり、心臓や血管へのダメージを減らせると考えられるのです。

■食事内容の変化も影響か

 また、われわれが噛む動作をするときは、咀嚼筋だけでなく、舌、口蓋、喉、咽頭などさまざまな筋肉が動きます。噛むことでそうした筋肉が緩むと副交感神経の働きが高まり、心拍数を上げたり血圧を上昇させるストレスホルモンの過剰な分泌が抑制されることもわかっています。一定の間隔で噛むリズムが、副交感神経を優位にするという意見もあります。

 さらに、副交感神経とは関係なく、噛む力が弱くなると食べ物をうまく噛み砕けなくなるため、野菜や肉、魚介類といった硬いものを避け、糖質が多く含まれた軟らかいものを選んで食べるようになる。そうした食生活の変化が動脈硬化を促進して、心臓疾患の発症リスクが高まるという見方もあります。

 噛む力は歯の本数と関係していることも考えられます。65歳以上の日本人2万人以上を対象に4年間追跡した調査では、歯が20本以上残っている人の死亡率に比べ、10~19本の人で1.3倍、0~9本の人で1.7倍上昇したと報告されています。歯が多く残っている人ほど認知症や転倒のリスクが低いこともわかっていて、心臓疾患との関連も指摘されています。

 こういったいくつもの理論に対してきちんとした科学的な裏付けが揃ってくれば、心臓疾患の予防や治療に大いに役立つでしょう。たとえば、噛む力が強い人と弱い人それぞれのバイオマーカーを測定してどんな時にどのように動いているかを調査する。噛む力に応じて咀嚼のスピード、作業効率、食事量、食事内容にどのような変化があって、それが心臓に対してどのような影響を与えるのかデータを蓄積していく。噛む力と心臓疾患の関係をはっきりさせるには、そうした研究や調査の積み重ねが必要で、それによって得られた知見が適切な医療につながっていきます。

 噛む力や歯と心臓の関係について、今後のさらなる研究に期待しています。

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天野篤

天野篤

1955年、埼玉県蓮田市生まれ。日本大学医学部卒業後、亀田総合病院(千葉県鴨川市)や新東京病院(千葉県松戸市)などで数多くの手術症例を重ね、02年に現職に就任。これまでに執刀した手術は6500例を超え、98%以上の成功率を収めている。12年2月、東京大学と順天堂大の合同チームで天皇陛下の冠動脈バイパス手術を執刀した。近著に「天職」(プレジデント社)、「100年を生きる 心臓との付き合い方」(講談社ビーシー)、「若さは心臓から築く 新型コロナ時代の100年人生の迎え方」(講談社ビーシー)がある。

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