独白 愉快な“病人”たち

飲んだら必ず死ぬと言われ…歌手の仲雅美さん肝不全・腎不全との闘い

仲雅美さん
仲雅美さん(C)日刊ゲンダイ
仲雅美さん(俳優・歌手/71歳)=肝不全・腎不全

 バブルが崩壊して3億円の負債を抱えてしまい、それまでに手に入れたものはすべて失いました。それがきっかけで離婚もし、子供とも離れ、1991年にはお酒の飲み過ぎで体を壊しました。あとから母と妹に聞いた話では、医師に「あと2日の命」と告げられた時もあったそうです。

 もともとビールが大好きで、お酒といえばビールでした。バブル崩壊後は毎日、缶ビール1箱(24本)は飲んでいました。

 そんなある日、自宅の近所の歩道橋を歩いていたら、クラクラッとなって階段から転げ落ちたのです。転げ落ちた目の前にお菓子屋さんがあって、そこのおばちゃんが出てきてくれて「大丈夫? 救急車呼びましょうか?」と言ってくれたんだけど、「いや、大丈夫、大丈夫」と応えてなんとか自宅まで帰りました。

 でも、結構血だらけだったので、当時同居していた母親が驚いて、すぐに病院に行くことになりました。実は若い頃から「大腸憩室症」という持病があって、下血した時に何回か入院した「かかりつけ病院」があったのです。

 歩道橋から転がり落ちた日は、血液検査をするとコレステロール値が善玉も悪玉もゼロで、検査した人が「こんな血液は初めて見た」と言っていたのを覚えています。

 肝臓の不調は自覚していたので、「ついに肝硬変になったかな」と思っていましたが、医師の診断はそれを通り越して「肝不全」と「腎不全」でした。

 入院して治療を始めても良くならず、逆に腹水がたまりだしてお腹がパンパンに……。脇腹には赤紫色の血管模様が広がっていきました。

 その後、意識が朦朧となり集中治療室に移されました。家族が「あと2日の命」と告げられたのはこの頃です。患者の間では、「あそこへ入ったらだいたい2~3日で亡くなる」と言われている部屋でした。でも、自分はそこで52~53日過ごして、一般病棟に帰ってきました。

 集中治療室での前半はほぼ夢うつつです。劇場のようなところにいて、客席に人が大勢いるんです。毎日午後3時ごろになると聖水のようなものを渡される儀式があって、みんなが順番にもらっているのですが、なかなか自分の順番が回ってこない。なんで回ってこないのかな……なんて、そんな夢をずっと見ていました。

 気づいたら体中にペタペタなにか貼られていて、心電図の規則的な音が聞こえていました。どんな治療をしたのかはあまり覚えていません。

仲雅美さん
仲雅美さん(C)日刊ゲンダイ
人工透析の寸前で持ちこたえている

 2~3カ月入院して危機を脱出した後、今度はリハビリ専門病院に入院しました。むくんだ体を動かして、体力をつけたり、禁酒も含めて普通の生活に戻るまで3カ月以上過ごしました。

 そこでの患者は、自分も含めて血小板が普通の人の6分の1ぐらいしかないので、血が止まりにくく、手術が簡単にできません。そんな中で、高齢のおじいさんが一人、腫瘍があっても手術できずに何年も入院した末に衰弱して亡くなりました。少し前に家族からもらった誕生日プレゼントのセーターを着ることもなくね……。そんな姿を目の当たりにした時、「何年も病院で過ごすのはつら過ぎる。早く体力をつけてここを出よう!」と強く思い、マジメにリハビリに取り組んで優等生になりました。

 薬は慢性肝不全の人のための栄養剤「アミノレバン」を飲んでいました。一生飲み続ける薬だと言われ、いろんな味を日替わりで楽しんでいましたが、アミノ酸は腎臓に負担をかけるので、排泄できないものが少しずつ手先や足先に蓄積する弊害が残り、現在は服用中の薬はありません。腎臓は人工透析になる寸前のところでなんとか持ちこたえています。

 医師から「飲んだら必ず死ぬ」と言われて以来、お酒はきっぱりやめましたが、それでも今現在、手足の指先がしびれたり、たまに痛みが出たりすることがあります。これがひどくなってくるといわゆる「痛風」ってやつです。

 病気をしてひとつ思ったのは、「習い事は無駄にならない」ということです。小さい頃、日本舞踊を習っていて、できないことも訓練するとできるようになる経験をしていたから、病気をして思い通りに動けない時にも「これはできたはずだ」と思えば努力ができる。きついけれど、そのきつさを通らないと体が慣れないことを知っているのです。「芸は身を助く」という言葉は、本来は、いざという時に芸が経済的な支えになるという意味だけれど、自分の場合は精神的な支えになりました。

 多額の負債で離婚することになった妻と娘には、悪いことしたなと思っています。

 でも最近、自分の誕生日に娘夫婦が食事に誘ってくれ、お孫ちゃんと一緒に祝ってくれました。

(聞き手=松永詠美子)

▽仲雅美(なか・まさみ)1950年、東京都生まれ。70年に歌手デビュー。テレビの新人紹介コーナーで歌う姿が木下恵介監督の目に留まり、71年のTBSドラマ「冬の雲」に大抜擢。同年、ロシア民謡「ポーリュシカ・ポーレ」を歌って大ヒット。73年には映画「同棲時代-今日子と次郎-」、74年には映画「愛と誠」などに出演。75年からは花登筺主幹の「劇団喜劇」に在籍し舞台と並行して「あかんたれ」「鮎のうた」などに出演。2019年には小倉一郎、江藤潤、三ツ木清隆らとユニット「フォネオリゾーン」を結成。「クゥタビレモーケ」でCDデビュー。YouTubeチャンネルも開設。

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