サインを見逃すな‼ 治療で改善できる認知症とは?

「歩きにくくなった」、「ボーッとしてやる気が出ない」、「トイレに間にあわなくなってきた」……あなた自身、あるいは高齢家族のこんな変化に、思いあたるふしはないだろうか。歳をとったせいだと思いがちだが、この3つの症状は、脳室に脳脊髄液(のうせきずいえき)が溜まってしまう『特発性正常圧水頭症(iNPH)』(とくはつせいせいじょうあつすいとうしょう)と呼ばれる病気の典型的なサイン。もし、この病気で発症した症状なら、治療すれば改善できる可能性があるのだ。

■脳室に脳脊髄液が溜まる『特発性正常圧水頭症(iNPH)』

「正常圧水頭症とは、脳内に脳脊髄液が普通の状態よりも多く溜まる病気のこと。脳室の拡大はありますが、脳圧が正常範囲内のものを指します」と話すのは、順天堂大学大学院研究科・脳神経外科学の中島円准教授。

 医学用語で「特発性(とくはつせい)」は原因が分からないという意味。くも膜下出血や髄膜炎などの病気に続いて発症する正常圧水頭症は、原因が特定できますが、それと比較し、原因不明で脳室に脳脊髄液が溜まるものが『特発性正常圧水頭症』(以下、iNPH)なのだ。

 iNPH(アイエヌピーエイチ)の有病者は国内に約37万人いると推定され、高齢者の100人に1人はiNPHの疑いがあるとされているが、この病気には、発症を示す3つの徴候があるという。

「1つ目は歩行障害で、もっとも顕著で分かり易い症状です。2つ目は認知症、3つ目は尿失禁です」

 歩行障害は、どんなふうに歩きにくくなるのだろうか。

「歩くときに両足の幅が大きく広がって、いわゆるガニ股歩きになるのが特徴です。また、足の裏がぴたりと地面にくっついてしまうため、膝が上がらず、小刻みにズルズル歩く“すり足歩行”になりがちで、転倒しやすくなります」

 歩行障害が強くなると、第1歩が踏み出せず、歩きにくくなったり、起立の状態を保てなくなったりするそうだ。

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順天堂大学大学院研究科・脳神経外科学の中島円准教授
注意したい高齢者の歩行障害、認知症、尿失禁

「2つ目の症状の認知症は、気力や集中力をなくして、1日中ボーッとしているタイプの認知症が多く見られます。認知症は、アルツハイマー型認知症やレビー小体型認知症などの神経変性疾患の場合は、今のところ根本的な治療法がありませんが、iNPHによって起こる認知症なら、治療によって改善できる可能性があります」

 ただし、「治る認知症」というイメージが大きくクローズアップされることで、誤解を招くこともあるそうだ。

「誰しも認知症にはなりたくありませんし、若返りたいと思っています。だから、認知症が治ると言うと、若い頃のクレバーな状態に戻るイメージを抱いて期待してしまいます。しかし、どんな薬や治療法をもってしてもそこまで戻るのは不可能。特にiNPHは高齢者の病気ですので、アルツハイマー型認知症も同時に併発していたり、他の病気と少しずつ合併していることも少なくありません。

 疫学調査では、iNPHの患者さんの18%はアルツハイマー型認知症を合併していると報告されています。実は、この数字は少な目で、実際に病理を調べている医療機関の調査では3割以上はアルツハイマー型認知症を合併しているとされています。例えば、アルツハイマー型認知症とiNPHが9対1で合併していたら、iNPHの治療をしてもアルツハイマー型認知症による認知症状は残るため、治療のメリットが少ないということになります。でも、それが半々なら、治療するメリットが十分にあると思います」(中島准教授)

 3つ目の症状の尿失禁は、尿意を我慢できる時間が短くなり、歩行障害もあるためトイレに間にあわず、失禁してしまうことが増えると言う。

 iNPHはすぐさま生命にかかわる病気ではない。が、生活の質(QOL)を著しく低下させ、健康寿命を短くしてしまうことは確かなのだ。

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順天堂大学大学院研究科・脳神経外科学の中島円准教授
加齢とともに脳脊髄液の吸収能力が低下して起こる

 ところで、iNPHはあまり耳にしない病名だ。なぜ、あまり知られていないのだろうか。また、どんなメカニズムで起きる病気なのだろうか。

「高齢者が治療にあまり積極的でないか、加齢に伴う症状に似ているため、疾患と気づかれずに放置されていることが影響していると考えます」

 疫学調査でもiNPHで病院を受診する方は罹患している方の10%未満と推定されているという。

「多くの方に治療の恩恵をうけていただけるように、iNPHに対してもっと知っていただきたいと感じています。実際に私も、患者さんやご家族に“水頭症”と説明すると、子どもの病気だと思っていましたという声をよくお聞きします。お子さんがかかる水頭症とはメカニズムが異なり、大人の場合は、加齢とともに脳脊髄液の吸収能力が低下して水頭症になります」

 最近になって、この脳脊髄液が、脳の老廃物を洗浄する役割を担っていることがわかってきたと言う。

「まだきちんと解明されているわけではないのですが、一般的に、1日にペットボトル1本分程度の脳脊髄液が作られ、同じ量が吸収され排泄されると言われています。老廃物を含んだ脳脊髄液は血管などに吸収されて頭蓋から排泄されますが、この循環している脳脊髄液が何かの原因で目詰まりを起こし、老廃物が溜まったままになるのですから、色々悪影響を及ぼすのは当然でしょうね」

■治療をすれば、認知症7割、歩行障害は8割も改善!

 このiNPHにはどんな治療法があるのか?!

「iNPHの治療法は、今のところ『シャント術』と呼ばれる手術しかありません。よく『お薬はありますか?』と聞かれますが、症状を緩和するものしかなく、根本治療にはなりません。シャント術は昔から行なわれている治療法で、患者さんの体内にシリコン製のカテーテル(管)を植め込み、脳室に溜まった脳脊髄液を体内の別の場所に誘導し、吸収させるものです」

 シャント術には、主に①脳室ー腹腔シャント、②脳室ー心房シャント、③腰椎ー腹腔シャントの3種類があり、国内では①と③が半々の割合で行なわれている。しかし、③の腰からのシャント術は脳を傷つける心配がなく、より低侵襲な方法のため、局所麻酔で行なうことも可能。高齢者にやさしい治療法ということで、順天堂大学病院では、③を選択する患者さんが9割近くを占めているそうだ。

 ちなみに、シャント術による改善率は、歩行障害が約80%、認知症は約70%、尿失禁は約50%である。

「ほとんど歩けなかった人が、しっかり歩けるようになる事も珍しくないですし、奥様が旦那さんを病院に連れてきて、元通りの生活に戻れたと喜ばれるケースもよくあります。知っていただきたいのは、シャント術が治療効果だけでなく、医療経済効果も高い治療であることです。手術後に介護度が改善されるため、患者さんの介護保険費用が減り、かかった医療費と今後かかる介護費を比べると、術後およそ2年で黒字に転じるのです。ご家庭の家計にも日本の医療費・介護費削減にも貢献できる側面も持ち合わせているのです」

 70歳以上の高齢者で、歩きにくくなった、歩くのが遅くなった、認知機能が低下した、度々尿失禁をしてしまう、などという症状が見受けられる方がいたら、iNPHを疑って医師に相談した方がいいだろう。

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▼中島円医師プロフィール 順天堂大学大学院医学研究科・脳神経外科学准教授。2013年より同大学院准教授に。2018年東フィンランド大学客員教授を兼任。特発性正常圧水頭症ガイドライン第3版の改定にも携わっている。日本脳神経外科学会指導医でもある。