3月4日に北京冬季パラリンピックが開幕し熱戦が繰り広げられていますが、先に閉幕した北京冬季五輪では、女子フィギュアスケートのカミラ・ワリエワ選手(ROC=ロシア・オリンピック委員会)のドーピング違反が騒動になりました。
ワリエワ選手は昨年12月に行われたロシア選手権で採取した検体から「トリメタジジン(バスタレル)」という禁止薬物が検出され、出場継続をめぐって大きな混乱を招きました。
トリメタジジンは、狭心症や心筋梗塞といった虚血性心疾患の治療に使われる経口薬で、血管を拡張して血流を良くしたり、心筋の代謝を改善したり、血管の中で血液が固まるのを防ぐ作用があります。アスリートが使用した場合、血流が増加することで持久力が強化され、運動後の回復も早くなる可能性があるため、禁止薬物に指定されているのです。
トリメタジジンもそうですが、心臓疾患の治療薬には血管拡張作用のあるものが数多く存在します。心臓は収縮と拡張を繰り返して全身に血液を送り出し、酸素や栄養を供給しています。血液を送り出すときは相応の力が必要ですが、血管が硬く狭くなっていたりすると、それだけ大きな力=高い血圧が必要になり、心臓には負荷がかかります。逆に血管が広がって血液を送り出すときの抵抗が減れば、心臓にかかる負担が少なくなります。心臓にトラブルを抱えてポンプ機能が衰えている患者さんにとっては、心臓に“楽”をさせる薬を必要とするケースが多いのです。
こうした血管拡張作用がある薬を健康な人が使った場合、血管が広がることで血圧が低くなりすぎてしまうリスクが考えられます。血圧が急激に下がると、めまい、立ちくらみ、頭痛、失神などの症状が表れます。さらに、送り出される血液量が減って全身の細胞に供給される酸素が欠乏すれば、ショック状態に陥ります。そうなると、脳、腎臓、肝臓といった全身の臓器の細胞が正常に機能できなくなり、死に至る危険もあるのです。
命に関わるほどの急激な血圧低下は、かなり多くの量の薬を服用しない限り起こるリスクは高くないと考えられます。しかし、ただでさえ血管が広がっている状況、たとえば気温や体温が高くなっていたり、脱水で血液の流れが悪くなっている状態では、普段はトラブルが起こらない量の薬でも、考えている以上に一気に血圧が下がるケースがあります。
その場合、狭心症や心臓弁膜症などの心臓疾患がある人は命に関わる可能性があります。自覚はなくても、心臓や血管などの臓器にトラブルの素因がある人でも、心血管疾患の発症や突然死につながる恐れもあるのです。
■バイアグラがリスト入りする可能性も
トリメタジジン以外でも、禁止薬物に指定されている心臓治療薬がいくつかあります。たとえば「ニトログリセリン(硝酸薬)」です。こちらも血管拡張薬で、冠動脈をはじめ全身の血管を強力に拡張させる作用があり、狭心症の症状を改善させます。アスリートでは、同じく血流を良くして心臓への酸素供給を増やし、持久力などを強化する目的で使うのでしょう。これも、血圧を急激に下げて死亡につながる危険があります。
心不全の治療に使われる強心薬の中にも禁止薬物になっているものがあります。急性心不全で血圧や心拍出量を増加させなければならない場合に用いられる「カテコラミン系強心薬」は、心筋の収縮に関わるアドレナリンβ受容体を刺激して収縮を増強し、心機能を改善させる薬です。
アスリートが使えば、血流や心拍数を一時的に増やしてパフォーマンスを上げることが可能です。しかし、心臓の収縮力が高まり過ぎて、心室細動などの致死的な不整脈を引き起こす危険があります。突然のショッキングな出来事に驚いて、心臓がバクバクする状態を薬でつくり出すわけですから、心臓にかかる負荷は非常に大きくなるといえます。
現時点では禁止薬物に指定されてはいませんが、世界アンチドーピング機関(WADA)がリストに加えることを検討しているのが「ホスホジエステラーゼ5阻害剤(PDE5阻害剤)」です。血管平滑筋の弛緩などに関わる酵素(PDE5)の働きを阻害し、血管を広げて血流を改善する作用があり、心不全の原因にもなる肺動脈性肺高血圧症の治療薬として使われています。一般的には、ED改善薬「バイアグラ(シルデナフィル)」としても知られている薬です。
アスリートでは、血流が良くなって酸素供給量が増えるため、持久力を向上させる作用が指摘されていますが、やはり全身の血管が広がって急激に血圧が下がりすぎてしまう危険があります。普段は問題なくても、心臓や血管にトラブルの素因がある人にとってはリスクが高い薬といえるでしょう。
■本コラム書籍化第2弾「若さは心臓から築く」(講談社ビーシー)発売中