独白 愉快な“病人”たち

病名が重すぎて…看取り士会代表・柴田久美子さん語るがんとの闘い

柴田久美子さん
柴田久美子さん(撮影)清水和土
柴田久美子さん(日本看取り士会代表取締役/69歳)=顎下腺がん・甲状腺がん

 人口が600人ほどの離島に渡って4年目の2002年、在宅ケアをする介護士として勤務していたときに「顎下腺がん」になりました。

 2週間ほど微熱が続いて食べ物がのみ込めない状態になり、島にひとつの診療所で診ていただくと「これはおかしいですね」と言われ、とりあえず点滴と、エンシュアという栄養飲料剤を1箱分持ち帰りました。病院ではないので、島では検査ができないのです。

 それから2週間たっても改善が見られないので、本土の大学病院で検査を受けました。すると、「顎下腺がんです。すぐ手術しないとダメです」と告げられ、即入院に……。そんな大ごとになるとは思っていなかったので、あわてて駅前の100円ショップで入院グッズを揃えて入院しました。

 顎下腺は、あごの下にある左右一対の大唾液腺のひとつで、治療は顎下腺の全摘手術しかないとのことでした。病名を聞いてもよくわかりませんでしたが、がんということだけはわかり、とてもショックでした。

 介護士として多くの人の死を見てきたけれど、だからといって決してがんは簡単に受け入れられるものではありません。世間では“2人に1人はがんになる時代”といわれますが、いざ自分がそうなってみると、まるで重たい石を強制的に持たされたような気持ちでした。

 まず、「家族に伝えられない」と思いました。当時は夫もいて、娘がいて、母や兄もいましたけれど、病名が重すぎて言い出せませんでした。

 でも、手術前日に主治医が病室まで来て、「明日の手術で声を失うかもしれません。でも命を救うためだから」と言われたとき、初めて「そんなに大変なことなんだ」と自覚したのです。それで、置いていってくれた睡眠導入剤を横目に「寝ている場合じゃない。みんなに“ありがとう”だけは言わなければ!」と、一晩中いろんな人に電話をしました。ただ、病気のことは伏せたので「こんな時間に何?」と怒られましたけどね(笑い)。周囲にがんだったことを伝えたのは、だいぶ後のことです。

 一通り電話をかけてから、最後に、私が憧れている故マザー・テレサに「もしも病気が良くなったら『看取りの家』をつくるので命を助けてください」とお願いをしました。

 もともと島に渡ったのは、お年寄りが容易に自宅での死を選べないことへの疑問からでした。病院がない離島ならそれがかなうと思ったのですが、独居だと100歳でも本土の病院に運ばれて亡くなる。せっかく離島まで来たのに、まるで力になれないことがとても大きなストレスでした。なので、看取りの家づくりは私の夢だったのです。

 願いがかなって、声を失うこともなく手術が成功したので2週間で退院し、通院もせずに看取りの家づくりに邁進しました。ちょうど入院中に島の集会場が競売に出されたのも奇跡なら、私が落札できたことも奇跡。私よりも高い金額を提示した人もいたんですけど、島が上限と下限を決めていたことで救われました。まさに「がんが私にくれたギフト」でした。

■2度目のがんは経過観察を選択

 数年後、活動を鳥取に移して在宅支援を広めていく中で、知人から「顎下腺がんを手術した後、ほったらかしでしょ。一度検査してみたら?」と勧められ、12年に受けたエコー検査でわかったのが「甲状腺がん」です。

 倦怠感ぐらいしか症状がなかったのですが、がんは甲状腺の周辺に点々と飛んでいて「手術は難しい」と言われました。2度目のがんですし、やはりショックは大きかったです。

 でも、抗がん剤治療は受けたくなかったので経過観察を選択しました。「甲状腺がんの9割は何もしなくても治る」と書いてあるものを読んだので、それをよりどころに家族にもがんを伝え、治療しないことを伝えました。

「このまま死んでしまったら、在宅での尊厳死の火が消える」

 そう思って、同じ年に「看取り士会」を発足しました。がんを抱えながら24時間365日、在宅で介護が必要な人に自分を必要とされる日々がスタートしました。娘はあきれていましたけれど、それが私のやりたいことだったので、結果として今、元気です(笑い)。

 私のがんを知った人たちから「これがいいのでは?」という健康情報をたくさんいただいたので、試してよかったものを現在も続けています。

 今の体に取った方がいい食材、取らない方がいい食材を調べてくれる機械があって、3週間に1度ぐらい通っています。毎回変わるので面白いですよ。たまに大好きなものがNGになったときはつらいですけどね。

 人生は、自分の使命を果たす道を歩くことだと思っています。私の場合は看取り士の存在を広く知ってもらうこと。そう思って、19年に映画「みとりし」を製作して公開したら、すぐにコロナ禍になってしまって負債だけが残りました。笑っちゃうくらいの大借金(笑い)。ただいま返済中です。 (聞き手=松永詠美子)

▽柴田久美子(しばた・くみこ) 1952年、島根県生まれ。日本マクドナルド社勤務などを経て、93年に福岡の特別養護老人ホームの寮母として勤務。98年には島根県の離島へ移住し、2002年に自然死を看取る施設「なごみの里」を開設した。10年、活動を本土に移し、12年に一般社団法人「日本看取り士会」を設立。20年には株式会社「日本看取り士会」を立ち上げ、現在は岡山県を拠点に看取り士の育成に尽力している。

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