独白 愉快な“病人”たち

言葉で仕事をしてきた自分が…ナレーターの沼尾ひろ子さん脳梗塞と失語症を振り返る

沼尾ひろ子さん(C)日刊ゲンダイ
沼尾ひろ子さん(58歳/朗読家・ナレーター)=脳梗塞/失語症

 脳梗塞になったのは2006年の初夏でした。生放送のレギュラー番組4本に加え、突発的な仕事もあってとても多忙だった頃です。

 たまたま土日に休みが取れたので、久々に実家に顔を出そうと車で東京から栃木に向かったその道中で最初の異変がありました。

 運転中に強烈な眠気に襲われたのです。しばらくするとハンドルを握る手に力が入らなくなり、首から下が鎧を着たように重くなりました。サービスエリアで30分ほど仮眠をとって症状は治まったものの、代わりに頭痛が始まりました。

 ようやく実家にたどり着いて、家にあった頭痛薬を飲んだけれど治りません。

 翌日、再び運転して東京に戻り、月曜からいつもの1週間がスタートしました。

 でも、気が付くと顔が映らないナレーションでは肘を突いて手で頭を支えながら原稿を読んでいました。あまりの不調に、木曜の朝にたまらず頭痛外来を受診しました。ちゃんとした頭痛薬を処方してもらいたかったのです。

 ところが、CT検査をすると「MRIを撮ってきてください」と、地図を渡されました。そちらの病院に行けば仕事に遅刻しかねない時間です。でも、ここで「行く」を選択したのが、今こうして回復できた最初の分岐点だったと思います。

 紹介された病院の脳神経外科に行くと、いきなり車イスに乗せられてびっくりしました。人生初のMRI検査の後、画像を見ながら医師から言われた言葉が「今日から1週間入院してくださいね」でした。「画像には異常は見られないけれど、訴えている内容や顔色からしてくも膜下出血が考えられる」と言うのです。

 真っ先に仕事のことが頭に浮かびました。でも「わかりました」と入院を受け入れたのが、第2の分岐点です。1週間なら急きょの夏休みという名目で休める。関係者にもドクターストップであれば納得してもらえると思ったのです。マネジャーと番組プロデューサーに経緯を話し、休みが決まったときにはホッとしました。その頃は這ってトイレに行くくらい調子が悪かったので……。

 すぐに点滴を打たれて頭痛が和らぎ、「あとは1週間待てば、また仕事に行ける」そう思っていました。ところが! 入院5日目の深夜、これまでとは比較にならないほどの頭痛に襲われたのです。すぐにナースコールを押せばよかったのに、「真夜中に悪い」と思ってしまって朝までガマンしました。朝、検温に来てくれた看護師さんに「あ~、う~」と訴えたあたりから記憶は定かではありません。急ぐようなサンダルの音をかすかに聞いた気がします。

 目覚めたら、ベッドの周りに親族が勢ぞろいしていました。そこで看護師さんが、「お名前は?」と小さな子供に言うように尋ねたので、バカにされた気がしてムッとしたことを覚えています。なのに名字が思い出せなくて、ふとリストバンドに書かれていた自分の名前を見たんです。でも、なんて書いてあるのかわかりませんでした。

■言葉を失い思い余って窓に手をかけたことも

 その後も何か聞きたくても言葉は出ないし、自分がどういう状態なのかもわからなくてイライラしっぱなし。カレンダーを見ると1週間が過ぎていて、「仕事に行かなきゃ」と焦るばかりでした。

 後から聞いた話では、左側頭葉に8センチ大の腫瘍があって、脳梗塞と脳出血を起こしていました。「命は大丈夫。でも左側頭葉は言語をつかさどる器官なので、言葉に障害が残るかもしれない」と家族は医師から言われたそうです。

 その見立て通り、失語症という障害を負いました。思っていることはいっぱいあるのに何ひとつ話せないのです。言葉で仕事をしてきた自分が言葉を失い、誰とも意思疎通できない孤独を味わいました。思い余って、窓に手をかけたこともあります。

 退院を切望して、1日2リットルの水分を取ることと、24時間ひとりにならないことを条件に約1カ月で退院しました。リハビリもやめてしまって、しばらくは庭の池で泳ぐ金魚を見て過ごす日々……。立ち直るきっかけは、母が通っていた朗読サークルに付いていったことでした。

 発表会の練習で欠席者が出て、代わりにセリフを読むことになったのです。言葉が出ないかもという不安を抱え戸惑いましたが、口が「やってみましょうか」と言ってしまったのです。人生で一番ドキドキしました。初めての生放送よりもです。短い3つのセリフを間違いなく言い終えてホッとし、最後に「やっぱりうまいわ」と皆さんに言ってもらえたことで、緊張の糸が切れて思わず涙が出ました。

 そこから本気のリハビリを始め、脳梗塞の発症から約3カ月で仕事復帰できました。私は発症したのが入院中だったので、この上なく処置が早かったレアケースなんです。それがこの結果を手繰り寄せました。

 わずかな不調があれば、迷わず病院へ行かなきゃいけないと改めて思います。幸いレアケースだった私は、失語症のつらさを広く伝えることができる数少ない人間です。この病気の理解と支援のためにこれからも活動していきます。

(聞き手=松永詠美子)

▽沼尾ひろ子(ぬまお・ひろこ) 1964年、栃木県生まれ。TBSの情報生番組「ひるおび!」「ブロードキャスター」、文化放送「吉田照美のやる気MANMAN!」などに出演。「フランダースの犬」の朗読をきっかけに、声と語りの“芸術ドラマティックリーディング”の道に。ユーチューブで「沼尾ひろ子の朗読の世界」を配信。「ウクライナ緊急チャリティー8時間耐久朗読」「東日本大震災復興応援朗読リレー」「失語症のある人の朗読会」などの朗読を行う。

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