自宅での療養をスムーズに始めるにあたり、さまざまな事前準備を行います。それを環境整備と呼んでいます。
たとえば、ポータブルトイレ、車椅子、手すり、杖などをそろえます。患者さんのADL(日常生活動作)に合わせた補助器具の手配、部屋や廊下への手すりを設置するなどのバリアフリー化も必要です。
介護認定は申請してから認定まで通常1カ月かかるため早めに動き出さなければなりませんし、介護認定がされるまでのつなぎとして医療保険の適用も申請しなければなりません。患者さんのQOL(生活の質)の向上とご家族の負担軽減のために、やるべきことはたくさんあります。そして、その環境整備の中に、患者さんとご家族の心の準備も重要な要素としてあります。
患者さんは果たしてなにを望んでいるのか? ご家族の思いは? 不満は何か? 他人の私たちに対して我慢して言わないでいることはないか? これらを確認することも、環境整備として大切な作業となるのです。
最近になって在宅医療を開始した80歳の男性で、前縦隔扁平上皮と縦隔リンパ節、さらに肝臓の進行がん末期の患者さんがいます。
これまでなんとか車椅子で通院をしていたのですが、少し前から息切れをするようになり、院内での独歩も怪しく、在宅医療を開始されました。病院からの申し送りによれば予後3カ月。自宅に戻られてからは、終日布団の上で過ごしながら、トイレなどは辛うじて自力でできているとのこと。
奥さまがこっそり私に言いました。
「実は、あの人を自宅で見るのは不安だったの」
元板前さんだという旦那さんは職人気質。頑固で気の強いところがあり、日頃から奥さまとの間で口げんかが絶えず、随分と苦労された経験から、そんな旦那を果たして介護することができるのかという思いだったといいます。
実際に在宅医療を開始早々、患者さんのお兄さんが我慢できずに、2人に激しく意見する場面に遭遇することになります。
「夫婦の会話でお互いカッカして大変なんですよ、先生。おまえも少し病人らしくしなさいっての、そしてあんただってもっと病人に優しくしなさいって。なんのために60年間一緒にいたんだよ、いい加減にしろ、そんなこと言って」
「もう私だめ、こんなにつらいことできない」
そう言って部屋を飛び出していく奥さまを尻目に、旦那さんは布団をかぶってただ黙っているのみで、私もどうすればいいのか困惑したことを覚えています。
後から聞いたことですが、当初、患者さん自身が奥さまの苦労を考えて入院も考えたそうです。しかし予後宣告を3カ月とされ、残された時間を自宅で過ごしたいという思いが高まり、延命措置も断って自宅で最期まで過ごすことを選ばれたのでした。
ひょっとして、そんな奥さまとこれまで通り口げんかをして、自分の家で過ごしたいという思いだったのかも。自宅にいないと家族とけんかもできないのですから。
1カ月ほど経ったある日、奥さまが私にぽつり。
「一番可哀想なのは声が出ないことね。言いたいことも言えないから」
看取られるその時まで、思う存分口げんかして欲しい。そう願わずにはおられませんでした。