「睡眠」の謎が解ければ人類と医療の未来が変わる 世界的な研究者に聞く

柳沢正史氏(C)日刊ゲンダイ

 日本人は睡眠不足で知られる。平均睡眠時間は7時間22分間。OECD加盟国では最低レベルで、平均値よりも1時間も短い。睡眠不足は認知症はじめ、万病のもととされるだけに大問題だが、希望もある。日本には筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構(IIIS)という素晴らしい研究機関がある。そこのトップ、柳沢正史氏(62)は脳中枢の睡眠メカニズムにおいて重要な物質、オレキシンを発見した世界的な学者だ。柳沢先生に最先端の「睡眠のすべて」を聞いてみた。

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 柳沢氏は紫綬褒章をはじめ、数々の賞に輝いている。今年も自然科学における国際的な学術賞、ブレークスルー賞に選ばれた。賞金300万ドルという桁外れの賞だが、なぜ今、睡眠の研究が選ばれたのかは興味深い。睡眠のメカニズムは謎ばかりだが、解明されれば、人類にとって「違う世界」が現れる可能性を秘めているからだ。

 たとえば、睡眠のメカニズムが解明されれば、睡眠を制御する方法が分かるかもしれない。

■動物はなぜ眠るのかが大きな謎

「睡眠における脳内のメカニズムが分かれば、当然そこに人為的に介入する方法も見えてくるはずです。薬でもいいし、別の方法もあり得る。原理が分かれば、さまざまな応用にもつながります」

 人を冬眠させられるのではないか、というSFのような話も出てきている。

「私たちの研究所の櫻井武副機構長のラボでは2020年、ハツカネズミを神経科学的に冬眠状態にさせる手法を偶然編み出して、大きな話題になりました。マウスは本来、冬眠しませんから。もし、人間に応用できれば医療に革命が起きますね。病気や事故が起きた時に時間稼ぎができますから。きちんとした治療ができる施設まで運ぶ間の時間稼ぎでもあるし、根本的な治療方法が見つかるまでの時間稼ぎでもある。たとえば、新型コロナは、肺がダメになって酸素が取り込めずに亡くなるわけです。しかし、冬眠させてしまえば低酸素で生命を維持できる。今の治療は何とか酸素の供給を保ちましょうという医療ですが、酸素の消費の方を下げてしまうという方法もあるわけです」

 もうひとつ、夢を感じるのは勉強方法だ。睡眠は記憶の定着に密接にかかわっているのである。

「記憶のためには睡眠が必須です。睡眠中に記憶の取捨選択が起こっていて、大事なことだけ残して、そうでないことは消え去るようにできている。つまり、記憶の整理みたいなものですね。睡眠を制御できれば、この整理がもっと効率良く、シャープに行えるようになるかもしれない」

筑波大学国際統合睡眠科学研究機構(C)日刊ゲンダイ
国は研究者からのボトムアップで予算配分を

 柳沢氏の発見は日常生活で強い睡魔に襲われる病気、ナルコレプシーの治療に活路を開いた。認知症も睡眠不足と関係があるとされている。睡眠の制御は認知症治療にも可能性を秘めている。

 とはいえ、睡眠のメカニズムはいまだに分からないことだらけだという。

「藤井聡太君が名言を残していますよね。19歳にして。インタビューで『将棋をどこまで極めたと思いますか』と聞かれて、『登山に例えれば、まだ、森林限界を超えられていません。まだ、頂上が見えません』と言った。睡眠研究も同じです。森林限界を超えていない。まだ、頂上までの道筋が見えてこない。私の現役のうちにそれが解けたらいいなと思いますね」

 一体何が分かっていないのか。

「ビッグクエスチョンが2つあります。1つは、どうしてすべての動物が眠らないといけないのか? なぜ、睡眠が必要なのか? 眠っている間は動物は基本的に意識がなくなる。外界からの刺激に対して鈍くなるわけで、とてもリスキーなんですね。なぜ、そんなリスキーな行動を人間も含め、すべての動物がするのか。2つ目は長く起きているとなぜ、眠くなるのか。起きていると眠気がだんだんたまってくるんです。専門用語で睡眠欲求とか睡眠圧と言うんですが、それが眠ると解消される。私がよく例えるのは“ししおどし”で、竹の筒が上を向いている状態が覚醒で、その竹筒に睡眠欲求という水が徐々にたまって、水位が上がっていくと、ある瞬間、竹の筒が傾いて水を吐き出す。脳の状態が睡眠に切り替わるわけですね。下向きになっている間は睡眠時間で、その間は水がゆっくり流れていく。人間の場合だと7、8時間かかります。水が流れ切ると、竹筒が元に戻り覚醒する。脳の中で、こうした現象が起こっているのは分かっているのですが、どういうメカニズムなのかが分かっていない。今、水を睡眠欲求に例えましたが、この水の正体も皆目、分かっていない。また竹の筒は何かをカウントしているわけですが、カウンターのメカニズムも分かっていない。『睡眠欲求がたまりました』という情報伝達がどう行われているのかも分からない。唯一分かっているのは、神経回路に切り替えスイッチがあるということです。簡単に言えば睡眠中枢と覚醒中枢のようなものがあって、お互いがせめぎあっている。どっちかが強くなると片方は弱くなる。中間状態がなくて、必ずどっちかに傾いている。このスイッチについては、この10年ぐらいでほぼ解明されました」

 睡眠は奥深いが、この分野でこそ、日本の科学の底力を示してほしいものだ。

 柳沢氏には、科学技術立国を目指すという掛け声だけは勇ましい国への注文も聞いてみた。

「やはり、研究費の配り方ですね。基礎研究は基本的に儲かるものではないので、企業化は難しい。国が支えるしかないのですが、日本のやり方は2つの意味でダメです。1つはトップダウンでボトムアップではないこと。研究とは言うまでもなく、専門家である研究者がやるわけです。何が面白いか、何を研究すべきか、そこには勘もあるし、美意識みたいなものもある。ですから、研究費の配分は研究者のボトムアップで決めてほしいのですが、今の日本は違う。大きな研究に関してはほぼトップダウンで決めています。文科省、経産省、厚労省、最近は内閣府が直接配ったりしていますよね。あれしろ、これしろと言い過ぎなんです。もう1つは安定性、持続可能性。ちゃんと業績をあげて成果をあげていれば同じテーマで続けられるようにしてほしい。私はアメリカに24年いました。その間、ハワード・ヒューズ財団から研究費をいただいた。5年ごとに4回リニューアルし、結局25年間ずっとお世話になった。そのおかげで今がある。そういうサステナブルなメカニズムが今の日本にはないのです」

 なぜそんなふうになってしまったのか。

「アメリカの政治家は専門家が非常に多くて、専門家同士が議会で侃々諤々やって予算を取り合う。しかし、日本の政治家はリテラシーがない。財務省主計局が文科省の官僚相手に細かいところを突っついて潰してしまう」

 こうしたことは日本人の世界的な学者が口を揃えて言っていることだ。国がきちんと研究費を確保し世界一睡眠不足の日本人を救ってほしい。

▽柳沢正史(やなぎさわ・まさし) 1960年5月生まれ。睡眠覚醒を制御する神経伝達物質オレキシンの発見者。米科学アカデミー正会員。紫綬褒章、朝日賞など受賞多数。

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