メガネを語る

江戸時代のメガネ店と作り方 18世紀初頭にガラスレンズ登場

(C)日刊ゲンダイ

 前回までにお話ししたように日本では江戸時代に庶民を含めて広くメガネが普及していました。当然、各地にメガネ店もあったわけで、「町の案内書」というべき書物にその記録が残されています。

 たとえば、1665年に刊行された「京雀」という本があります。当時の仮名手本の流行作家である浅井了意が書いた京都の商工諸職を紹介した「京都ガイドブック」です。その中の挿絵に「四条坊門通」、通称「たこやくし通」に「目かねや」が描かれています。

 1678年の「京雀跡追」、1684年の「雍州府志」にもメガネ店の記述があります。御幸町や三条の北に玉細工職人が多く、舶来のメガネよりも品質が良い、と書かれているようです。当時は玉細工職人がメガネ屋を営んでいたようです。

 天下の台所といわれた大坂には伏見町8丁目に「京玉や」があり、そこには八郎兵衛という職人がいたことが、1679年の「難波雀」「増補難波雀」に書かれています。記述から八郎兵衛は京都の玉細工の手法を受け継いだ玉細工職人だったことがわかります。また、1692年の「万買物調方記」には、うちわや忠兵衛という玉細工職人がびんご町でメガネ店を営んでいたことが描かれています。

 江戸では、1687年刊行の「江戸鹿子」、先述の「万買物調方記」に玉細工職人として南伝馬町の玉屋庄左衛門、神明前三嶋町の同作右衛門、眼鏡師として京橋南の印刷や市郎兵衛の名前が記されています。

 なお、江戸時代のメガネのレンズの原材料は水晶で、これを大和国金剛山から出土した柘榴(ざくろ)石の結晶片で磨いて作ったようです。1690年の「人倫訓蒙図彙」、1713年の「和漢三才図会」に書かれています。「和漢三才図会」によると「最近では硝子が使われている」と記されており、この頃からレンズの原材料が水晶から硝子に替わりつつあったことがうかがえます。

(メガネウオッチャー・榎本卓生)

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