がんと向き合い生きていく

マスターの“説得”で命を救われた男性が今度は胃の検査で…

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 65歳の独身男性Sさんは、40年間、林業関係の会社に勤務していました。夕方、仕事が終わると、いつも会社近くの飲み屋横町に出かけました。行きつけの居酒屋は決まっていて、夏の暑い日も雪が降る日も、毎回3軒“はしご”をしました。

 飲むお酒も決まっていて、某銘柄のウイスキーの水割りです。ボトルにマジックで自分の名前を書き、店のカウンター奥の棚にキープしていました。3軒とも同じ銘柄のウイスキーで、空になると店主(マスター)は新しいボトルを出し、Sさんはサインしていました。Sさんは5年前に会社を定年退職しましたが、その後も夕方になると店のカウンターにはSさんの姿がありました。

 この20年の間、Sさんはなじみの居酒屋で時々一緒になるMさん(60歳・男性)と飲み友達になってきました。Mさんとは勤めた会社も仕事も違いますが、話が合ったのです。

 飲み屋横町に8軒あった店がどんどん閉店し、昨年秋には、開店しているのはSさんが通っている1軒の店だけになってしまいました。Sさんは、Mさんとマスターを相手に、この40年を振り返るように言いました。

「俺は上京して会社に入り、すぐこの店に通うようになった。この店は、先代から今の息子さんに引き継がれたが、このホッとする雰囲気はずっと変わらない。よくまあ40年間も、しかもずっと同じボトルで、同じグラスで歓迎してくれたものだ。うれしいよ」

 Sさんの話は続きます。

「俺にとって、ここは命の源、特に先代のマスターは命の恩人だよ。15年も前になるかな。ここでウイスキーを飲んでいて、胸の真ん中にしみるような痛みがある気がしたことがあった。マスターは、病院に行くようにってうるさく言ってくれた。俺はきっと大丈夫だと病院に行かないでいた。マスターは本当に怒り出して、『病院に行かなかったらここは出入り禁止だ!』と、ウイスキーは出さないとまで言った。それでしぶしぶ病院に行ったら、食道がんだった。でも、大手術ではなくて内視鏡でがんを切り取れた。助かったよ。食道がんは、症状があった時はすでに進行していることが多いらしいけど、俺は内視鏡の治療で7日間だけの入院で終わった。それで今でもこうして飲んでいられる。あの時、ここに通うのを1カ月休んだが、その時だけだ。ここのマスターは、息子さんを残して先に死んじゃったけど、俺の恩人だよ」

 Mさんとマスターは、以前からこの話を何回も聞かされていました。Sさんは酔うと話すのです。それでも、2人は何も言わずに黙って素直に聞いていました。別の客が入ってきた時でも話は続きます。

 Sさんは、この話を一晩に2回話すこともありました。そんな時は、明らかに酔っているとマスターが判断して、電話でタクシーを呼びます。Sさんは素直にタクシーに乗って帰るのでした。

■“骨折り損”で笑顔

 ある時、Sさんが店になかなか現れないことがありました。たしか、検診か何かで胃の検査を受けると言っていたことをMさんとマスターは思い出し、2人は「胃の検査でがんでもあったのか?」とさすがに心配になりました。それでも、Sさんの携帯電話の番号も知らないので、黙って待つしかありません。

 3週間後、Sさんが久しぶりに現れました。白い包帯に巻かれた左腕は板で固定されているようで、首から吊ってあります。転んで、腕の骨にひびが入ったとのことでした。Mさんとマスターは「大したことがなくて良かった」と手を叩いて喜びました。

「何が良かったんだよ。“骨折り損”とはこのことかよ」

 Sさんはそう言って、2人と一緒に笑いました。

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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