医療だけでは幸せになれない

迷うようなことはだいたいどっちでもいい…考え続けることが重要

着けていてもいいし、外していてもいい
着けていてもいいし、外していてもいい(C)日刊ゲンダイ

 本連載の2回目の記事がネットニュースに掲載され、複数のコメントが付いたが、読まれ方はいろいろだ。ある人は私を「コロナ=かぜ派」と読み、ある人は「かぜでない派」と読む。また別の人は、知りたいのは実態や判断であって、あいまいで観念的なことを書かれても役に立たないという。そうしたコメントに対して言いたいのは、この記事の最後に書いたように、判断はさておき「考えよう」というのがこの連載の趣旨である、ということである。

 考えるためには、判断を中止する必要がある。しかし、それは無理だというのが多くの人の反応だろう。「判断を中止すると言われても、マスクを着けるか着けないのか判断しないといけないから、そんなことはできない。実生活でマスクを着けるか着けないかを、それぞれの状況で判断しなくてはならない」というわけだ。そういう大多数の人のために一応、私自身の判断を書いておくと、着け続けてもいいし、やめてもいい、どっちでもいいということだ。どっちでもいいと言われても困るという人は、国の指針に従って、その通りにすればいいと思う。そういう判断というか、行動は適当に決めておいて、その後も考えることはやめないで、考え続けよう。その考え続けるために何か役立つことを書こうというのが、この連載の基盤にある。

 どうしたらよいか迷うようなことは、だいたいどちらでもいいというのが、私自身のこれまでの経験から言えることだ。さらに言えば、こっちでないと困ると判断したことも、振り返ってみればどっちでもいいということがほとんどだった。大学入試の時、なんとしても合格する、合格するために一生懸命勉強する、という判断をしたが、今から思えば、もっと適当に勉強して、行ける大学へ行って、適当にすればよかったという気持ちもある。そもそも大学に行かなくてもよかったかもしれないと思わないでもない。

 ただそんなことを書くと、医者になったからそういうことが言えるのだと言われそうだ。確かにそういう面はある。しかしその医者にしたって、私が医学部に入学した40年以上前は、まったくひどいものだった。大学病院の研修医には給料すら払われず、無給の医局員というのが大勢いた。さらに無給どころか、大学院の授業料を払って、病院の仕事をしている人も珍しくなかった。

■判断や行動で思考を縛ってはいけない

 私自身はそれなりの給与をもらって研修していたが、それでも、月の時間外労働が200時間ということもあった。支給される時間外は40時間までだったと記憶している。まるで眠れない当直の翌日もいつものように働いた。下手をするとそのまま次の日の夜まで働き続けるということもあった。それでも何とかやってこられたのは、「医師になることが重要だ」という判断をせずに、なんとなく医師になったからという気もする。よくよく考えた末の判断で医者になっていたとすれば、その期待と現実のギャップに押しつぶされていたかもしれない。

 ただそれは、30年以上にわたって医者を続けてきた主な要因ではない。最も大きなこととしては、「がんばることが重要」という価値観が常に頭にあったことではないかと思う。しかし、この「がんばることが重要」というのも、今となってはそんなふうに思うこともなかったなというのが、正直なところだ。私には3人の子供がいるが、3人ともそれほどがんばらず、こうなりたいというのもなく、30歳を過ぎているが、それなりに楽しそうに毎日生きている。

 私もこんな人生の方がよかったな、それが今の本音でもある。「マスクを着ける/着けない」「ワクチンを受ける/受けない」という判断も、同様に最善の判断をしたと思ったところで、振り返ってみればそうでもないことが多いのではないか。むしろ次の判断のために考え続けることが重要だということだ。

 だいたいのことはどっちでもいいというのは、コロナについても当てはまる。それを判断が困難と考えるよりも、行動は適当に決めて、考えることだけは根気よくだらだら続けたい。

 判断や行動は重要ではない。その多くはどちらでもよい。重要なのは考え続けること。最後にそれをもう一度繰り返しておきたい。(武蔵国分寺公園クリニック名誉院長)

名郷直樹

名郷直樹

「武蔵国分寺公園クリニック」名誉院長、自治医大卒。東大薬学部非常勤講師、臨床研究適正評価教育機構理事。著書に「健康第一は間違っている」(筑摩選書)、「いずれくる死にそなえない」(生活の医療社)ほか多数。

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