医療だけでは幸せになれない

医学的に正しい情報とは…「病態生理学的正しさ」と「疫学的正しさ」の違い

写真はイメージ
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 医療は凄まじい勢いで変化しているかに見える。半面、人間は一向に変わっていない。1990年にスタートした「ヒトゲノム計画」を端緒に「ゲノムサイエンス」が進み、それを土台とした「ゲノム情報」を基にした患者の「個別化医療」が勢いを増している。これは集団のデータを個人に当てはめる医療の限界が明らかになりつつあるなかで生まれたため、何か素晴らしい新しい医療が誕生し、人を幸せに導くように見える。

 しかし、ゲノム情報もしょせんリスク、確率で表されるにすぎず、一度しかない個別の人生の最適な解など、そもそも存在するかどうかもわからない。医学情報と個人の幸福のギャップはたいして埋まってはいないのである。そんななか、私たちは医療の正しさの意味とその限界を知り、個人の幸せのあり方を改めて考えなければならない。本連載はそのためのものである。

 前回、高血圧に対する「正しい情報」の一部について説明した。「ランダム化比較試験で、高血圧を治療することで脳卒中が予防できるという結果が示された」という情報である。これは「医学的に正しい情報」のひとつではあるが、唯一の「正しい情報」ではない。むしろある立場での限られた「正しい情報」に過ぎないといった方がよい。

 医学的な「正しさ」というと、何かすでに確立した基盤があると思われるかもしれない。しかし、個別の患者にとっての「正しさ」で言えば、いまだ何が正しいのかよくわからない。それが最先端の現代医療にも当てはまる。さらに、一般的な医学的な正しさという点でもいまだあいまいな部分が多い。研究が重ねられるにつれ判断が困難になるという逆説は、より個別の医療の提供が求められると同時に、一般的な正しさもそれに合わせて変わっていくほかないのが実情だ。そのことを血圧についての医学的正しさを例に見ていこう。

■激変する医療だからこそ知っておきたい

「高血圧は脳卒中や心筋梗塞を引き起こす」というのは一般にもよく知られた情報のひとつだ。これを患者に説明するとき、2通りのやり方がある。ひとつは、「血管が高血圧により高い圧力にさらされ続けると血管の内側の細胞に傷がつき、やがては血管から出血する。それが脳の血管で起これば脳出血になる。一方、傷からコレステロールが入り込んで血管の内部に張り出してくればやがては血管を詰まらせる。それが心臓の血管で起きれば心筋梗塞になる」と説明できる。これを病態生理学的説明という。病気が起きるメカニズムの説明ということである。個別の患者で起きていることを説明するという点で個別の患者にとってはわかりやすい説明と言えるだろう。

 それに対して、「血圧が高い人は正常の人に比べて、脳卒中や心筋梗塞のリスクが2倍以上高い」との説明もできる。むろん、血圧が正常でも脳卒中や心筋梗塞になる人はいるし、高血圧でならない人もいる。集団として比べると血圧正常の集団で1%脳卒中が起きるときに、高血圧の集団では2%以上起きるということである。ただ、この説明は個別の患者にはわかりにくい面がある。目の前にいるその個人は、高血圧だとしても脳卒中や心筋梗塞にならないかもしれないし、正常血圧だとしても合併症を起こすかもしれない。これを疫学的説明と呼ぶ。高血圧で脳卒中や心筋梗塞を起こした人に対しては、病態生理学的説明の方が腑に落ちやすいだろう。疫学的説明をしても、「高血圧でない人がいるのになぜ私はこんなことになったのだ」という疑問を抱くのが普通かもしれない。その反対に高血圧を放置しても元気な人に対して、前者の病態生理学的説明は理解しがたい。

 それに対して、後者の疫学的説明の方は、高血圧でも何ともない人がいるという説明に合致し、納得できる面がある。個別に起こることに対して、現在の医学は一貫した説明手段を持っていない。状況に応じて、納得が得られやすい説明があるに過ぎない。個別の条件がより個別化すればするほど、一貫した説明は困難になる。「正しい情報」といっても、この病態生理学的説明と疫学的説明のような矛盾がある。医学的な説明に限っても「正しさ」が複雑なのだ。さらに現実の判断の場では、医学的な正しさだけでは判断できない。さらに別の「正しさ」を検討する必要がある。社会学的、人類学的、倫理学的、経済学的、政治学的、哲学的な正しさ、それぞれの正しさがある。

 今後は、これらの多くの「正しい情報」のうちの「医学的に正しい情報」の、そのまたひとつである「疫学的に正しい医学情報」についてしばらく取り上げていく。これは「統計学的に正しい情報」と言い換えてもいいかもしれない。いずれの説明を使うにしろ、これは「正しい情報」のほんの一部に過ぎないと、最後にもう一度強調しておきたい。

名郷直樹

名郷直樹

「武蔵国分寺公園クリニック」名誉院長、自治医大卒。東大薬学部非常勤講師、臨床研究適正評価教育機構理事。著書に「健康第一は間違っている」(筑摩選書)、「いずれくる死にそなえない」(生活の医療社)ほか多数。

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