独白 愉快な“病人”たち

中1でギラン・バレー症候群 美馬寛子さんは陸上に救われた

中学1年生のときに自宅で倒れ「ギラン・バレー症候群」と診断された
中学1年生のときに自宅で倒れ「ギラン・バレー症候群」と診断された/(C)日刊ゲンダイ

 中学1年生のときに自宅で突然倒れ、「ギラン・バレー症候群」と診断されました。この病気は、免疫システムが自分の末梢神経の一部を攻撃してしまう、まれな病気です。痛覚や触覚、温度の感覚を伝える神経とともに筋肉を動かす神経も攻撃してしまうため、手足に力が入らなくなるのです。

 私の場合は右手から力が抜けて鉛筆も持てなくなり、歩けるけれど右足は感覚を失ったような状態でした。その症状はよく「グローブ・アンド・ソックス」といわれているんですけど、私はブーツを履いているような感じで、足に何かが当たっても何も感じないほどでした。

 発症は13歳の冬で、「少し熱っぽいな」と思う程度の不調を覚えたタイミングでした。夜、自分の部屋の床に倒れて横たわっていた私を父が起こしてくれました。倒れた記憶はないのですが、起きたら右手に力が入らず、右足の足首から先が無感覚で、「何だろう?」と思いました。母は脳の病気を疑ったようです。というのも、母方の叔父が脳梗塞で倒れたことがあったからです。

■母だけが診察室に呼ばれ……

 翌朝、学校を休んで母と大きな病院へ行きました。小児科から脳外科に回され、脳波やらCTやら、いろいろな検査をしました。でもひとつも異常はありません。最終的に「髄液を採ってみましょう」ということになって、初めて「ギラン・バレー症候群」と分かったのです。母だけが診察室に呼ばれたときは、子供心に「普通じゃないな」と思いました。そして、そのまま入院になったのです。

 その日に計測した右手の握力は3キロでした。医師の話では「もし、このまま悪化していくと呼吸困難になり、人工呼吸器をつける可能性もあります」とのことでした。重症になると合併症を引き起こし、命にも関わる病気なのです。足は捻挫しても骨折しても痛みが分からないから、入院中は歩行器を使用しなければなりませんでした。まったく元気に歩けたんですけどね(笑い)。

 当時から身長163センチだった私は、小児科のベッドには納まらず、産婦人科での入院となりました。そこには車椅子で移動する同じ病気の女性がいて、思わず母が「代わってあげたい」と呟いたのを聞きました。幼いながら「親不孝なことをしてるんだな」と思ったことを覚えています。

 入院中は、ただ安静にして点滴で栄養などを取り、10日に1回ぐらい髄液を採って調べるだけ。背骨の、骨と骨の間に注射針を刺され、髄液を採られるのはつらかったですけど、これといった治療は特にありませんでした。特効薬がないのです。

■走り高跳びをすすめてくれた先生に救われた

 実はこの病気は菌が脊髄に入って悪さをする病気で、菌が体から排出されれば症状も治まるんです。そして、特に体内にたまる水銀と関係があるといわれているようです。実際、私は生まれつき体内の水銀量が多く、肝臓での水銀分解力が弱いようなんです。完治はしない病気ですが、幼いうちに発症した場合は、再発の確率はとても低いと言われました。

 菌の数値が下がると比例して症状もなくなり、1カ月で退院。その後1カ月の自宅療養を経て、学校に復帰しました。でも、医師からは「運動はダメ」と言われ、体育の授業は見学。大好きなバスケットボール部の活動も見学するだけになりました。人とぶつかって転ぶことが非常に多いスポーツだからです。

 救われたのは、「君が何もスポーツをしないのはもったいない」と、走り高跳びをすすめてくれた先生がいたことです。両親も、私からスポーツを取ったら何も残らないと思っていたようで賛成してくれました。

 中学2年から始めた走り高跳びは、中学3年で全国大会に出場できる成績を収め、それがきっかけで高校の推薦が決まり、陸上のおかげで東京の大学にも進学できました。もし、東京に出てきていなかったらモデルという仕事とも無縁でした。そう思うと、病気が私の人生の第一のターニングポイントだったといえます。

 さらにいえば、家族が事故で相次いで亡くなるという不幸があったとき、精神的に乗り越えられたのも病気の経験がプラスになったんじゃないかと思います。今は、あまり病気を意識していません。熱が出ると握力が気になりますけどね。ただ、「普通のことが普通じゃない」ということは、病気から学びました。

 ある日突然、それまで当たり前にできていたことができなくなることは誰にでもあり得るのです。不自由なく歩けることがどれだけありがたいことか……。そして、明日は何が起こるか分からないから、今やりたいことに素直でいたい。将来を見越して我慢するのはもったいないですよ。

▽みま・ひろこ 1986年、徳島県生まれ。2008年にミス・ユニバース日本代表となり、同年の世界大会でトップ15位、さらに「ベスト・オブ・アジア」に選ばれた。その後、数々の有名ブランドのモデルとして世界的に活躍。現在、ワールドクラスビューティーエキスパートとして、ファッションや美容関連の講演、イベントに多数出演している。

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