独白 愉快な“病人”たち

透析が一生続くとわかって…宿野部武志さん腎不全との闘い

ピーペック代表理事の宿野部武志さん
ピーペック代表理事の宿野部武志さん(提供写真)
宿野部武志さん(ピーペック代表理事/52歳)=慢性腎不全・腎細胞がん

 3歳で「慢性糸球体腎炎」という病気が見つかり、物心ついた頃には入退院を繰り返す生活でした。毎月検査をして、数値が悪くなると入院。でも自覚症状はありませんでした。

 おそらく当時の腎臓病のガイドラインでは、運動は禁忌だったので、小中高校の体育の授業はすべて見学です。

 とはいえ放課後にはよく走り回っていましたけどね。何しろ痛いとか苦しいといったことが何もなかったですから……。

 腎臓は「沈黙の臓器」といわれていて、症状が出にくいのが最大の特徴です。一般に自覚症状が表れたときにはすでに重症化していて人工透析が間近になっていることも多いといわれます。なので、18歳で透析を導入するまでは薬物治療がつらかった時期以外は元気なときもありました。定期検査の値でかなり「腎不全」の状態に近くなってきても自覚症状はそこまで感じていませんでした。

 主治医に「そろそろ透析が近いね」と言われたのは大学受験の頃です。そのタイミングで、3歳からお世話になっていた病院から腎臓病に強いといわれる大学病院に移りました。「受験だけはさせてほしい」とお願いして、いつからでも透析できるように「シャント」という透析用の血管をつくってから大学受験に臨みました。「次に頭痛があったら危ないから、頭が痛くなったらすぐ入院して」と言われながら何校か受験して、最後の試験が終わったとき、絵に描いたように頭痛がきて大学病院に緊急入院しました。

 もっとも、入試はすべて不合格。病院に許可をもらって合格発表を見にいったのですが、病院に帰るのが嫌でしたね(笑い)。でも不合格は病気のせいではなくただの勉強不足。「尿毒素がたまって頭が回らなかったんでしょう」と言ってくれる人もいましたが、単純に遊んで勉強しなかっただけです。

 そこから予備校と人工透析の両立が始まったのですが、インターネットもない当時、1回目に受けるそのときまで僕は人工透析を点滴のようなものだと勘違いしていて、いつか透析をしなくて済むようになるのでは……と思っていたんです。

 3歳から腎臓が悪く、体育は見学、塩分控えめの生活をずっとしてきたのですが、当時の僕は病気について無知でした。詳しいことを知りたくなくて、意識的に目を背けてきたのです。

 透析が始まるというときに、その病院の売店で透析の本を買ったものの、それも怖くて読めなかった。パラパラとイラストだけを見て、「点滴みたい」と勝手に思ったのです。透析は週3回のペースで一生続くとわかったときはビックリしました。

 予備校、大学時代は、透析と授業・生活をやりくりするいいトレーニングになりました。その後、無事に就職し、仕事と透析を両立していた中、30代後半で社会福祉士を目指すことを決意し、退職して専門学校に入りました。

■「がん=死」と思っていたので激しく動揺した

 1年間勉強して、さあ、あと1カ月で国家試験というときに告知されたのが「腎細胞がん」です。

 ある日、血尿があったので近所の病院を受診すると、あっけなく「腎細胞がんですね」と告知されました。当時は「がん=死」と思っていたので激しく動揺しました。会計で順番を待つ間も拳を握りしめていないと涙が出てしまうほど。帰りの駐車場で、普段なら絶対にしないようなところでクルマをぶつけてしまったくらいショックを受けていました。

 ところが、次に病院に行ったときに医師から「あ~宿野部さん、がんじゃなかったみたい」と軽く言われたんです。一気にその医師を信じられなくなりました。「今さら、がんじゃなかったみたい~はないだろう」と思い、すぐに検査記録を取り寄せて、透析導入した大学病院でセカンドオピニオンを受けました。再び検査をやり直すと、やはり「腎細胞がん」と診断され、腹腔鏡で左腎の摘出手術を受けたのです。

 何とか社会福祉士の資格は取れましたが、もしセカンドオピニオンを受けていなかったらと思うと恐ろしい限りです。そのとき初めて「医師にお任せじゃなく、自分でちゃんと考えないといけないんだ」と、強烈に刻みつけられました。

 腎細胞がんは時間が経ってからも再発・転移するといわれているので、2008年の手術から今でも年に1回は造影剤を使った検査を受けています。でも、おかげさまで病気はあっても健康です。1回5時間の透析を週3回受けている透析患者ですけれど、やりたいことが常にあり、精神的にとても充実しています。

 僕は今、製薬会社や医療機器メーカーと、病気を持つさまざまな人の声をつなげる仕組みづくりをしています。医師や周辺情報ではなく、エンドユーザーの生の声を製品づくりに生かしてもらいたいのです。患者側も経験してきた病気の話をちゃんと聞いてもらえ、それが次のモノづくりのヒントになると知って、病気が人生にとってマイナスだけじゃなかったと思える。

 病気を持つ人だからこそできる取り組みをこれからもっと充実させていきたいと考えています。

(聞き手=松永詠美子)

▽宿野部武志(しゅくのべ・たけし) 1968年、埼玉県生まれ。大学卒業後、ソニーに入社し、37歳で退職。39歳で腎臓がんにより左腎を摘出した。42歳で慢性腎臓病や腎臓病患者の支援サービスを行う会社「ペイシェントフッド」を起業。2013年にポータルサイト「じんラボ」をオープン。2019年には一般社団法人ピーペックを設立し、代表理事として「病気があっても大丈夫と言える社会」を目指して活動している。

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