医療だけでは幸せになれない

コロナはまだ未知なもの…いまは判断、行動にとらわれず、自由に思考すべき

反対意見も考え続ける(写真はイメージ)
反対意見も考え続ける(写真はイメージ)/(C)日刊ゲンダイ

 新型コロナ感染症をネタに書き始めたものの、話題は別な方向へとそれていく。そもそもコロナは考えるための材料に過ぎない。コロナについて書きたい人はたくさんいるし、私自身コロナについて書きたいわけではない。多くの人が知りたいということは誰かが書くだろうから、そうでないことを書きたい、というような天邪鬼なところが私にある。

 自分自身がどんなものを読みたいかと言えば、訳のわからないものが読みたい。これまで何度も繰り返し読んできた本は、どれも読んでもよくわからないものばかりだ。読んでその場でよくわかる本も読むが、繰り返し読もうとは思わない。わからないけど読みたい、わかるまで読みたい、そういう本こそが自分をつくってきた。ただ結局、何度読んでもわかるというわけにはいかず、ぼろぼろになるまで読み続ける。わからないままに自分の血となり肉となっている。そんな本が何冊かある。

 だから、自分自身も訳のわからないものが書きたい。とはいえ、訳がわからないものは、繰り返しどころか1回も読めないというのが普通だろう。わからなくて1回も読めないものと、わからないけど繰り返し読みたいものの差は何か。好き嫌いということだろうか。わかるものにだけでなく、わからないものに対しても好き嫌いがある。わからないけど繰り返し読みたいものを求めてというのは、わからないけど好きというものを探しているのかもしれない。

 しかし世の中のありようは、わかるものは好きだけど、わからないものは嫌い、そうしたものが主流に思える。自分が理解できるもの、自分と同じものには好意的だが、理解できないもの、自分と異なるものは排除しがちな世の中と言ってもいい。コロナに関わる論争も、似たようなところがある。この背景のひとつは、行動につながらない思考は無意味という価値観が関係しているような気がする。理解せずに行動する、自分の意見と異なる行動をするというのはむつかしい。多くの行動について当てはまることだ。コロナに対する対応も例外ではない。

■反対意見も考え続ける

 具体的に書こう。

 コロナは風邪だと理解して、その理解が自分の意見になり、それに沿った行動をとる、そういうことだ。普通といえば普通。普通過ぎるといってもいい。風邪だと理解しながら、重症化する危険な病気として対処するというほうがおかしい。

 しかし、それこそが思考停止の原因ではないだろうか。思考を行動につなげない。行動にとらわれず思考しなければ思考の自由が担保できない。思考を止めないために、行動は適当にする。行動につながらない自由な思考こそ重要である。そういうのはどうか。

 コロナについて考えるとき、理解しがたいものについて、自分の行動とは真逆なものについて、よくよく考えてみる。いったんマスクを着ける/着けないと判断したうえで、着けたのであれば、着けていない場合のことをよく考える。着けていないのであれば、着けたときのことを考える。具体的に言えばそういうことである。マスクを着けると、着けたほうがいいという情報ばかりを集めやすいし、考え自体もその方向に振れがちだ。マスクを着けないとその逆である。それは思考停止に他ならない。

 コロナそのものは、まだまだ訳のわからないものだ。だからこそ考えるに値する。わかったと思った端から、いやまだ訳がわからないと考えたほうがいい。このように行動すればいいのだと判断できたと思ったときから、むしろそうでない行動についての思考が始まる。行動は行動、思考は思考、そこを切り分ける。

 また観念的だと言われるだろう。しかし、考えるということは観念的だということだ。観念的でないとすればそれは考えていないということになる。

 コロナは風邪だ、いや風邪ではない。どちらの意見の人も、自分自身の行動とは別に、もう少し反対意見について考え続けてみてはどうだろうか。

名郷直樹

名郷直樹

「武蔵国分寺公園クリニック」名誉院長、自治医大卒。東大薬学部非常勤講師、臨床研究適正評価教育機構理事。著書に「健康第一は間違っている」(筑摩選書)、「いずれくる死にそなえない」(生活の医療社)ほか多数。

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