がんと共生する時代がそこに 転移は「心臓ホルモン」で防げる

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写真はイメージ(C)日刊ゲンダイ

 肺や乳腺など、あらゆる臓器にがんができるのに、なぜ心臓にはがんができないのか? がんに関心のある人なら、一度はこんな疑問を抱いたことがあるはずだ。そのメカニズムを解明し、がん転移の予防に役立てようとしているのが、国立循環器病研究センター研究所(大阪・吹田市)の野尻崇・生化学部ペプチド創薬研究室長だ。カギを握るのは心臓から分泌されるホルモンである「心房性ナトリウム利尿ペプチド」(ANP)。その血管保護作用に目をつけ、さまざまな種類のがん転移の予防・抑制につなげようというのだ。野尻室長に聞いた。

「ANPとは主として心臓の心房で合成・貯蓄され、血液中に分泌されるホルモンのこと。水とナトリウムをおしっことして排泄し、血管を拡張するなど血圧や体液を調整する働きがあります」

 ANPは寒川賢治氏(同研究所所長)ら日本人研究者が発見。1995年から急性心不全の薬(商品名ハンプ)など心臓病の薬として広く使われている。

 このANPにがん転移を防ぐ働きがあるというのは驚きだが、わかったのは偶然からだという。

「私は呼吸器外科医として肺がん手術を多数手掛けました。肺がんの患者さんは、手術後2割程度が不整脈に苦しみます。これを予防する目的でANPを使ったところ、不整脈が減るとともに、肺がんの再発率が大きく下がったのです」

 実際に肺がん手術を受けた患者を「手術のみ」と「手術+ANP投与群」とにわけて2年後の無再発生存率を比べたところ、前者が67%、後者が91%と手術+ANP投与群の方が圧倒的に予後が良かったという。

■大規模多施設研究がスタート

 その後、肺がんや乳がん、大腸がんの細胞をマウスに移植して行った動物実験でも、転移を防ぐ結果が得られた。また、悪性黒色腫を使った実験では、ANPを働かなくしたマウスは心臓にがんが転移。このことから、ANPはがんの転移を防ぐ働きがあると考えられるようになったという。

「当初はANPは抗がん剤と同じようにがんを直接攻撃していると考えていましたが、誤りでした。がんが転移するには、(1)がん細胞が全身に散らばっている(2)血管に炎症が起きている、などの条件が必要です。普通、がん細胞はがんの塊から離れて血管に侵入しても、白血球やマクロファージと呼ばれる貪食細胞により、1~2日で死滅します。ただし、血管に炎症があると、血管の内側にE-セレクチンという接着物質が生まれる。血液中を移動するがん細胞はこれにくっつき、そこで増殖・転移を起こすのです」

 ANPはこの接着物質を減らすことで、がん細胞が血管にくっつくのを防いでいるのだという。

「がんが転移せず、いつまでも発生したところにとどまっていれば怖くありません。腫瘍が大きくなって他の臓器の働きを低下させない限りは、がんとの共存も可能です」

 現在、ANPによる肺がんの転移を抑える効果を調べるため、「JAMP STUDY」と呼ばれる大規模多施設臨床試験が9月1日からスタート。先進医療Bに指定され、肺がんの8割を占める非小細胞肺がんで転移のない患者500人を募集し、手術のみの群と手術+ANP投与の2群に分け、2年後の無再発生存率を調べる調査が始まった。

 その結果次第で、ANPが世界初の「抗転移薬」として注目されることになりそうだ。しかも、ANPはこれまで数十万人の心不全患者に投与され、重篤な副作用が報告されていない。心臓ホルモンは誰もが持っているので、従来の抗がん剤よりも安全で使いやすい。

 がんは転移させず、コントロールして共存する。そんな時代が訪れるかもしれない。

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