独白 愉快な“病人”たち

始まりはK-1時代 角田信朗さんは過食症に10年悩んだ

現在はボデイービルダーとして活躍
現在はボデイービルダーとして活躍(C)日刊ゲンダイ

 過食がピークだったころ、試合が終わった後はビールをジョッキ3杯から始まって、客単価が1000円ぐらいのお店で8000円ぐらいは食べていました。お腹がパンパンで苦しくなるまで食べてから、さらにコンビニに立ち寄り、決まってコーラ2リットル、氷、ポテトチップス、ジャムパン、エクレアなどを袋いっぱい買って帰るんです。

 帰宅したら、トイレに行って口に指を突っ込んで、一度グワーッと吐いてから、コンビニで買ってきたものを胃に詰め込むだけ詰め込んで、また再び吐く。そして、胃薬を飲んで寝るのが一連のルーティンでした。それが約10年続きました。

 過食の始まりは、ちょうど正道会館(現在は新日本空手道連盟)が「K-1」をスタートさせた1993年前後。選手でありつつ運営管理にも携わっていたので、ムチャクチャな忙しさだったんです。今から思えばノイローゼ気味でした。

 ルール作りから出場交渉、専門家が作るような契約書の作成、競技管理まで、あらゆることが自分にのしかかってきました。しかも、できて当たり前だと思われていたんです。そんな無理難題を押し付けられても、やってのける自分がまた好きでしたが(笑い)。

 そのころ、尊敬する館長(石井和義氏)に「日本は真夜中でもアメリカは真っ昼間だ。世界は動いているんだよ」と言われ、ファクスを買わされました。朝10時から夜10時までは会館で仕事をして、深夜12時ごろに自宅に帰ってやっと食事して寝るころには、海外からファクスがカタカタ流れてくるわけです。で、目が覚めてそれを読むと「この金額じゃ試合は受けられない」といった内容。慌てて館長に電話すると、「なんや、こんな時間に!」と怒られるわけです。自分が「世界は動いてる」って言ってたのにですよ。そりゃ、過食しますよね(笑い)。

 当時は電子メールがまだなかったですから、四六時中ファクスの音に悩まされました。面倒くさいことはみんな私のところに来るんです。最終的には「選手のビザが下りないから、おまえが行け」といわれ、“なんで俺が?”と思いながら現地へ飛んで、ビザ取得のために奔走したこともあります。

 サラリーマンの経験を生かし、考え得る限りの書類を持参してワープロを使って英文で作り、現地の大使館に提出するのですが、何度提出してもどうしてもダメ。現地から館長に電話をしても本人は電話に出ず、伝言で「なんとしても選手を連れてこい」のひと言で電話を切られるんです。

 知恵を絞り尽くして、最後にはその選手が所属する陸軍にも一筆もらって「これでもビザが下りないなら辞職しかない」と思い詰めたほど。結果的に「今回は特別」ということでビザが発行されたときは「ヤッター!」という思いで泣きました。

 そのテンションで館長に電話すると、びっくりするほど冷静に「角ちゃん、やればできるやん。ご苦労さん」の一言で終わり。またまた「くそーっ!」と思いました(笑い)。

 まあ、いろいろありました。でも“やればできた”わけで、いい経験だったと今は思いますが、当時は数限りない理不尽な注文にひたすら耐えていたので、そのはけ口が必要だったんです。

 私が陥った「過食嘔吐」は、嘔吐するときがある種の快感なんです。その快感を味わうために過食していました。苦しくなるまでひたすら食べて、それを一気に吐き出すことで心の苦しみも一緒に出ていくような感覚に酔っていたんです。

「このままじゃいかんぞ」と思い始めたのは、40歳になって血糖値が上昇してきたころです。医者には行かず、まず手始めに、夜に糖分や炭水化物を取らないようにしました。すると血糖値が徐々に下がっていったんです。過食も自力でなんとか食い止め、さらに、1年ほど前から始めたボディービルのために、完全な食事管理をするようになったら、見事に健康体になりました。

 ボディービルに出合う前は、東日本大震災があって、K-1がなくなって、ホームだと思っていた大阪に帰ったらアウェー感満載で、また過食嘔吐に傾きかけていました。そんな自分をボディービルが救ってくれたんです。

 ボディービルに出合えたのも何かの縁。引かれたのは、肉体の限界だけでなく、メンタルも鍛えられる点です。格闘技で心身を鍛えてもコントロールできない部分がある。そんな自分の弱さを克服できるかもしれないと思ったんです。

 今、世の中で一番おいしいものは、厳しい減量の後に食べる1個190円のリンゴです(笑い)。カツカレーやラーメンは、もうそれほど渇望しません。味覚って、変わるんです。

▽かくだ・のぶあき 1961年、大阪府生まれ。中学生で少林寺拳法を習い、高校生で極真空手道場に入門。大学時代に正道会館空手の設立を支え、大学卒業後、サラリーマンを経て正道会館神戸支部長、本部職員・最高師範となる。格闘技K-1選手、レフェリー、俳優、歌手活動など、多方面で活躍。近年はボディービルダーとして才能を発揮している。