独白 愉快な“病人”たち

西山麗さんは大動脈弁狭窄・閉鎖不全症 14歳で最初の手術

西山麗さんはソフトボール元日本代表
西山麗さんはソフトボール元日本代表(C)日刊ゲンダイ

 以前、北京五輪で獲得した金メダルを持参して、病気の子供たちに見せに行ったら、すごく喜んでくれたんです。病気を抱えた子供、とくに私と同じ病気の子供たちに希望を与えたい――。それは、この病気を持っている私にしかできないことだと思っています。

 実は今年の春、2度目の手術をしました。1度目のときより精神的にも肉体的にもつらくて、つい最近まで落ち込んでいたんです。人生で一番悩んだと言っても過言ではありません。

 最初の手術は中学2年生、14歳の時です。5歳で大動脈弁狭窄・閉鎖不全症と診断されてから、いつかはしなければならないといわれていた手術です。この病気は、心臓と大動脈の間にある弁の働きが不十分になる病気で、血液が詰まったり逆流してしまいます。私は苦しくなった経験はないですが、一般的には息苦しさや疲れやすさが主な症状で、突然死の可能性もあるといわれています。

 医師には「激しいスポーツは勧められない」と言われながら、小学生のときはバスケットボールに夢中でした。練習量はチームメートの半分ぐらいに自分でセーブして、特に問題はなかったのですが、中学生になるとき、父から勧められたのがソフトボールでした。攻守があって休める時間があるとの理由からです。初めはあまり乗り気じゃなかったのですが、やり始めたら面白くて(笑い)。

 そんな折、半年に一度の定期検診で「そろそろ手術を」という話になりました。特に困ったことはなかったけれど、この先も普通の生活をするための手術です。ただ、私には「思いっ切りソフトをやれるようになるための手術」でしかなかったので、不安よりもうれしさのほうが大きくてワクワクしていました。

 受けた手術は生体弁置換術というもので、悪くなった自分の弁をドナーの方から提供していただいた弁と交換する手術です。ドナーは米国の14歳の女の子だと聞いています。8~9時間の大手術を受けた後、1カ月ほど入院しました。交換する弁が人工弁だと血液をサラサラにする薬を飲まなければなりませんが、生体弁ではその薬は不要です。ただ、生体弁には寿命があり、5~10年、長くても15年ぐらいで、再び手術をしなければならないと聞かされました。 医師からは、相変わらず「激しい運動は勧められない」と言われましたが、「自己責任でやります!」と押し切って、その後もソフトボールを続けました。練習量をセーブする分、一球一球を全力で、誰よりも懸命にやることで補ってきました。その結果、北京五輪でメダリストのひとりにもなれ、本当に年を追うごとに生体弁に感謝していました。

 ところが、その生体弁が18年目を迎えた今年、いよいよ寿命がきたのです。正直、“このタイミングで、なんで?”と思いました。折しもリーグ戦の開幕戦が終わったばかり。これまで以上に地道に取り組み、やっとつかんだ試合のチャンス。しかも、今の会社にコーチ兼選手として呼んでもらった1年目での戦線離脱です。ショックでした。

 さらに、手術は前回よりはるかにキツかった。生体弁への置換は1度しかできないとのことで、今回は人工弁への置換でした。痛みと吐き気が想像以上で、痛みに強いと自負していた私が、ICU(集中治療室)で「誰か助けて!」と言っちゃったほど(笑い)。

 さらに苦しかったのは心の方でした。人工弁になると血液をサラサラにする薬が必須。つまり、ケガをすると血が止まりにくいということです。競技を続けるには、あまりにリスクが大きいのです。

 体もしんどくて、どうすれば前向きな考えになれるのか分からなくなって、“ソフトボールができない自分が生きていていいのか……”ということまで考えました。ついにはソフトボールをやめようと思ったんです。母親にも「もうダメだな、諦める」と泣く泣く告げました。

 でも、それから数カ月たった今、チームに合流して遠征しています。まだ試合には出られないものの、やっぱり続けることを選びました。“この自分にしか伝えられないことがある”と思えるようになったからです。病気の子供たちに希望を与えたい――。その原点に戻って、体がもつ限りチャレンジし続けようと今は思っています。

 現役続行を母親に電話すると、「そう言い出すんじゃないかって、お父さんと話してたのよ」と言われ、親はすごいなと思いました。私もいつか子供が欲しいです。でも、その前に結婚ですね(笑い)。

▽にしやま・れい 1984年神奈川県生まれ。5歳で大動脈弁狭窄・閉鎖不全症と診断され、14歳で生体弁置換手術を受ける。中学からソフトボールを始めると、高校でも目覚ましい活躍を見せ、日立ソフトウェアに入社。08年北京五輪のソフトボールで金メダルを獲得。16年から豊田自動織機「シャイニングベガ」でコーチ兼選手として活躍している。