独白 愉快な“病人”たち

作詞・作曲家の中村泰士さん 「嫌な性格」はうつ病が原因

すっかり陽気なイメージが定着
すっかり陽気なイメージが定着(C)日刊ゲンダイ

「中村さん、俺のこと嫌いなんか? 何が偉いねん。絶対おかしいから精神科行け!」

 36歳のとき、大阪のテレビ局のプロデューサーが東京に来るというので、東京駅まで迎えに行き、六本木で夕飯を食べ、さらに銀座と深夜まで案内した時のことです。

 僕は歓待したつもりなのに翌日、彼はこう言った。何でそんなこと言われなきゃいけないのかと正直ムッとした。でもその時、僕はしかめっ面で二言、三言しか話していなかった。昔の僕を知る彼からしたら、明らかにおかしかったんです。

 それから2年経ち、10年来の友に言われた言葉がずっと引っかかっていて、やっと精神科を受診した。2日間にわたった問診の後、うつの診断が出たんです。

 33歳でちあきなおみさんの「喝采」以来、ヒット曲も出せているし、体調も悪くない。でも、医師は「うつですよ。だって周りに友達いないでしょ? 孤立しているのがうつなんですよ」と言うんです。

 当時の僕は、無口であいさつしない。人に説教する。面倒なヤツになっていた。もう4~5年そんな感じで、みんな絡まれたくないから腫れモノに触るような感じになっていました。「スター誕生」の審査員で渋い顔をしていたのもそのころ。あの時の僕しか知らない人は、今も嫌なヤツだと思っているでしょうね。

 僕は、うつだけが続く「低空飛行型」。しかも、音楽家として地位も確立していたから、誰も逆らえない状態が出来上がってしまったんです。たまたま僕は関西人の旧友が指摘してくれたからよかったけど、孤立していても気づかず、強権をふるって怒鳴りつけたり、社員をクビにしたりしている経営者も結構多いんじゃないかな。

「あなたはクリエーターだから、自分をクリエートしてください。それで大丈夫だと思います」

 そう言われ、薬も処方されませんでした。

 以来、自分で明るく振る舞うよう心掛け始めた。39歳のときの作詞・作曲した梓みちよさんの「小心者」は、まさに僕の心情を自覚して表現した歌詞でしたね。

 42歳で「北酒場」がヒットして、「笑っていいとも!」にレギュラー出演したり、僕のイメージはますます“陽気な”に変わっていった。

 91年にご飯を食べて「うまいなぁ~」と大笑いする炊飯器のCMに出演し、明るく過ごすほうが心地よくなってきて、次第に本来の自分を取り戻し、うつが気にならないようになりました。15年前から大阪を拠点に移したら、ますます明るくなりました。

■関西人の普通のオッサンでいるのが楽しい

 直球で話せる、関西人の普通のオッサンとして飲み屋で歌謡曲を聞いているのも楽しい。人より多く生きてる分、たまにいいこと言うと尊敬してもらえるしね。

 昔は歌謡曲1曲作るのに関わっている人が多くて、創作活動よりも「伝えること」がひと仕事。東京の“回りくどい”表現で仕事を進めていた。そうして作曲家然とするようになり、病が巣食うことになったんだと思います。

 今は、機材も進化し、自宅で作詞・作曲・アレンジまでできるようになり、CDも直販状態、関わる人も減り、ストレスは軽減されました。

 東京は流行を吸い上げて廃れさせる。大阪は流行をつくる側。だから僕は今、大阪から歌謡曲ムーブメントを起こそうと思っています。タクシーのおっちゃんに「最近、仕事してないんちゃうか」って言われて、「うるさいわ!」と笑いながら返せる。このストレートな関西の会話が元気にさせてくれるんです。

(聞き手・岩渕景子)

▽なかむら・たいじ 1939年、奈良県生まれ。72年、ちあきなおみの「喝采」で第14回日本レコード大賞、82年、細川たかしの「北酒場」で第25回日本レコード大賞を受賞。2006年から拠点を大阪に移し、歌謡曲ライブ「道頓堀SUPER歌謡劇場」を主宰。5月に7時間7分にわたる喜寿記念ライブを敢行。来年春には大阪城ホールにて「1万人の歌謡曲」を開催する。