天皇の執刀医「心臓病はここまで治せる」

圧倒的な薬剤不足の環境でもオフポンプで冠動脈バイパス手術をやりきった

天野篤氏
天野篤氏(C)日刊ゲンダイ

 8月中旬に4泊6日の日程でベトナムに単身で出向き、3施設で4例の手術を行った話を続けます。

 ひとりで渡航したのは、現地のスタッフと一緒に手術をすることで、ベトナムの若手医師たちに自分の技術や経験をより多く伝えたいという“狙い”がありました。ほかにも、患者さんを犠牲にすることなく、現地の医療に何が足りないかを見つけ、日本とはどのくらいギャップがあるのかを体感する――。そんな目的も持っていました。

 1人目の患者さんは狭心症で、首都ハノイ市にある108国防軍基幹病院で冠動脈バイパス手術を行いました。「108」というのは部隊名と関連しているそうです。

 日本でも普段から実施している心臓を動かしたまま行うオフポンプ手術を選択したのですが、薬剤の不足に苦労させられました。オフポンプを行う際、2ミリ以下の細い血管をつなぎ合わせる関係でβ遮断薬という薬剤を使って心臓の拍動を抑えて処置を行います。心臓の拍動が通常のままだと、それだけ操作が難しくなり、繊細な縫合が困難になるので難易度がアップします。

 そのため、今の日本を含めた医療先進国では、術中に超短時間型のβ遮断薬を使って数分だけ心臓の拍動を低下させ、その間に処置を行っていくのが一般的です。なぜ「超短時間」かというと、長い間、心臓の抑制を行うと術中に心不全を来すことがあるからです。

 それでも、かつて私がオフポンプを始めた頃は、まだ超短時間型のβ遮断薬がありませんでした。当時は通常型の注入量を増やすことで30分~1時間ほど拍動を抑え、処置をしていました。しかし、ベトナムには超短時間型どころか通常のβ遮断薬すらありません。オフポンプ手術そのものが行われていないため、拍動を抑える薬剤が必要とされていないのです。

 古典的な“教科書”では、心臓の動きを止めて行う手術で心拍を抑制する薬を使用するのはよろしくないとされていました。しかし今は、手術の際だけでなく、心臓の筋肉が厚くなっていたり拍動が強かったりする場合は、積極的に拍動を抑えて酸素消費量を抑え、心臓を楽にしてあげるのが良いという考え方が一般的です。ベトナムでは、そうした医学的知識がアップデートされていない状態なのです。

 実際、英語を使える医師はそれほどいませんし、ベトナム語で書かれた心臓手術の教科書もありません。インターネットで海外の文献を調べても、外国語ができない分だけ理解が不足してしまいます。何がいちばん新しくて、どれにエビデンスがあるのかという知識が欠けているのです。

■帰国後は“怖さ”がなくなった

 また、薬剤が不足していただけでなく、オフポンプ手術の最中に使う炭酸ガスやそれを吹き付ける機械もありませんでした。炭酸ガスは、冠動脈を切開した際に起こる出血に対し、血液を吹き飛ばして視野を確保するために使います。

 さらに、麻酔の管理もかなり不安定だったため、拍動が抑制されていない心臓を持ち上げて押さえると、一気に血圧が下がってしまいます。状態を見極めながら、だましだまし処置を行っていくしかなく、日本で行う同じ手術よりも1時間半くらい余計に時間がかかりました。

 そうしたさまざまな障害があったことで、手術の途中で「こうしておけば……」という気持ちが頭をよぎったのは事実です。しかし、患者さんのためにも引き返すわけにはいきません。拍動を抑える薬がないのであれば、いかに心臓をより自分の手元に近いところに置いて操作できるようにするかを考える。環境が整っていないなら、その中で工夫しながら対処するしかないと、自分自身の“初期化”を行ってやりきりました。

 結局、最終的には納得のいく内容で手術を終え、現地の関係者にも驚かれました。

 自分自身にも大きなプラスがありました。ベトナムでの手術を経験して、日本では恵まれた環境で手術をしていることにあらためて気づかされました。さらに、帰国して最初の冠動脈バイパス手術に臨んだとき、これまでより心臓が大きく動いていても、まったく気になりませんでした。“怖さ”がなくなったことで、今までよりもさらに素早く処置を終わらせることができたのです。

 年を重ね、必要以上に慎重になっていた自分がまた若返った感覚です。動きが重くなったパソコンを初期化したようなものかもしれません。そうした意味でも、ベトナムでの経験は貴重なものになりました。

天野篤

天野篤

1955年、埼玉県蓮田市生まれ。日本大学医学部卒業後、亀田総合病院(千葉県鴨川市)や新東京病院(千葉県松戸市)などで数多くの手術症例を重ね、02年に現職に就任。これまでに執刀した手術は6500例を超え、98%以上の成功率を収めている。12年2月、東京大学と順天堂大の合同チームで天皇陛下の冠動脈バイパス手術を執刀した。近著に「天職」(プレジデント社)、「100年を生きる 心臓との付き合い方」(講談社ビーシー)、「若さは心臓から築く 新型コロナ時代の100年人生の迎え方」(講談社ビーシー)がある。

関連記事