がんと向き合い生きていく

「大自然に生かされている命の喜び」患者の言葉を実感した

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 先日、ある県の里山に3日ほど滞在しました。夕方になると、山々が赤く染まり、そしてカエルの大合唱でした。こんな小さなカエルが、たくさん集まったとしても、どうして天まで届くほどの大声になるのか不思議です。

 目の前の畑で友人が摘んできたアスパラガスのおいしさは格別でした。ふと、20年ほど前に「大自然に生かされている命の喜びを知っていただきたい」とおっしゃっていた卵巣がんのGさん(当時54歳)を思い出しました。

 Gさんは他院で卵巣がんの手術を受けてから1年後に再発し、私が担当医となりました。

 診察のため、下着を脱いだGさんの上半身を見た私は正直驚きました。右乳腺の上に横径約10センチ、縦15センチほどの盛り上がった大きな腫瘤、右上腹部にも約12センチ四方の腫瘤が赤紫色に光っていました。卵巣がんの転移でした。痛みはそれほどでもなかったようですが、Gさんは皮膚がいつ破れて出血しないか、そして、これからの短い命を予想されて、とても不安そうでした。

 入院後、点滴による抗がん剤治療が始まりました。1回目の治療後から腫瘤は明らかに縮小し、3回目終了の頃には瘢痕程度になって、そして5回目の頃には全く分からなくなりました。

 Gさんは埼玉県のある山あいの町に住んでいました。入院中、治療効果が明らかになった頃から、Gさんはとても明るくなり、自分の家の畑のことを盛んに話されました。「汗を流して自分で耕すけど、野菜もイモも自然が恵んでくれるんです。土と太陽と雨とで育つの。大自然の恵みは素晴らしい。私たちには大自然に生かされている喜びがあるのよ」

■摘みたてののアスパラガス

 Gさんはすっかり元気になって、外来での通院治療となりました。治療開始から約1年半が経った翌年6月、外来の診察に来られた際のことです。この時もGさんはとても元気で、1カ月後の再診予定をして帰られました。

 しばらくしてから看護師さんが「診察室の外に置いてありました」と白い小さなビニールの袋を持ってきました。Gさんからの手紙とアスパラガスでした。

「けさ、家を出る時に、うちの畑のアスパラガスを10本摘んできました。持ってきてはいけないのは分かっているのですが、大自然に生かされている命の喜びは、摘んだばかりのアスパラを食べると分かるのです。先生に知ってほしいと思いました」

 私は看護師さんに、「困ったな。Gさんは帰ってしまって、もう返せないだろう。今日の僕は当直で家に帰れないし、あなたにあげるから持って帰ってくれる?」と渡しました。

 それから2週間後のことです。Gさんは急に痙攣が起こって救急車で緊急入院されました。

 意識がなく、CTスキャンを見ると、脳幹部という呼吸では最も大切な部分にがんが転移しています。緊急で放射線治療を開始しましたが、5日後には亡くなられてしまいました。

 がんが良くなって、あれだけ喜んで、「命の喜びを知って」と言ってくれたGさん。私は、せっかく摘んできてくれたアスパラガスを、自分が食べずに人にあげてしまったことは、Gさんにとても悪いことをしてしまったように思いました。あの時の外来が、Gさんとお話できた最後だったのです。

 今回、里山の旅で摘んだばかりのアスパラガスをいただいて、そのおいしさに、Gさんが言われる「命の喜び」が分かったような気がしました。

 私は何十年もずっと都会で暮らしていて、学生に向けた講義では「命の大切さ」を繰り返し話しています。しかし、Gさんの言われる「大自然に生かされているこの命の喜び」を、大して知らないまま、これまで過ごしてきたんだなと思わされました。

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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