メガネを語る

明治期の東京のメガネ店 一般教育の普及が後押しとなり続々開業

(C)日刊ゲンダイ

 明治に入り、メガネはますます普及していきます。その理由は一般教育の普及にありました。明治5年には東京に小学師範学校が設置され、8月には学制公布、その3年後に女子師範学校の設立、明治12年には教育令が公布されて義務教育が始まります。

 これに伴い、印刷技術が発達、新聞、雑誌、図書類が続々と刊行され、メガネも生活必需品として多くの人が手に取る時代になっていきます。

 この間、メガネの作り手側も変化していきます。支配階層だった武士が没落し、その必需品だった刀剣の外装などの技術者が失業していきます。決定的だったのは明治4年の廃刀令で、刀剣外装の名工や一般手内職の覚えのある下級武士、御家人たちの中から眼鏡作製に活路を見出す人が出てくるのです。

 そんな明治初期に活躍した眼鏡関係者といえば、日本橋で眼鏡や鏡を扱っていた加賀吉こと加賀屋、山岸吉郎兵衛商店でしょう。江戸時代からメガネと鏡を扱っていたこの店では、吉郎兵衛自ら横浜外人商館を通じてベルギーの板ガラスを取り寄せてメガネレンズを作っていたそうです。吉郎兵衛はなかなかのアイデアマンで、宣伝がうまかったようです。加賀屋の名をあちこちに刻んだ私設消防隊を作り大活躍、あまりの人気に本職から苦情が出て解散したという逸話が残っています。

 松島藤五郎商店(現松島眼鏡店)もまた鏡師出身で、銀座に店を構えてからは外国人相手のホテルに出入りし、官界にも多数の顧客がいたそうです。

 その後も続々と眼鏡店が開業していきます。たとえば、士族の長男の白山斉明が作った白山眼鏡店(現東京メガネ、明治16年)、金鳳堂(明治20年)、松本仙太郎商店(現松仙べっ甲製作所、明治20年)、東京帝国大学などの眼科から指定・推薦を受けた高田巳之助商店(現高田眼鏡店、明治34年)などです。

 当時、色眼鏡(サングラス)や洒落メガネ(度なし)、大き目な丸メガネなどの流行もあり、眼鏡業界は勢いを増していくのです。

(メガネウォッチャー・榎本卓生)

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