前回、かっけの原因として「米食」の「タンパク質不足仮説」を唱える海軍軍医・高木兼寛に対する反論を紹介しました。そうなると、当時の陸軍軍医・森鴎外を取り上げないわけにはいきません。
小説家・鴎外について、あらためて紹介する必要もないでしょうが、医師・森林太郎について少し説明しておきましょう。
林太郎の父は津和野藩の医師でしたが、林太郎が10歳の時に家族とともに上京、12歳で東大医学部の前身である医学校に合格します。医学校の入学資格は14歳以上19歳以下と決められていたにもかかわらず、年齢を偽って合格したようです。その後、19歳で東大医学部を卒業、明治19年にドイツに留学しています。この1年前の明治18年は、高木兼寛が水兵たちが洋食を嫌うのを受けて、米麦半々の食事により、かっけを激減させた年でもあります。
明治11年から17年の間の海軍でのかっけの発生が平均32・5%、18年が12・7%、米麦半々の導入後に0・6%という結果です。
林太郎はその後、明治21年に帰国し、翌年かっけについて論じた論文を発表しています。そこでは、米麦半々の食事前後のかっけの減少は、たまたまかっけの減少期と重なっただけかもしれず、米麦半々食によりかっけが減ったとは言えない。“その食事による”というためには、一兵団を半々に分け、他の生活は同じにして、食事だけを変えて比較する必要があるというものでした。
これもまた、まっとうな反論です。今流の言い方をすれば、「米食と麦食を比較したランダム化比較試験の結果を待たなければ、結論づけることはできない」というわけです。
正しい理論に基づいた“結果的には間違った”反論により、かっけ撲滅に至る道のりはまだまだ混乱し続けるのです。
数字が語る医療の真実