独白 愉快な“病人”たち

日本人初の同時移植 ハギワラマサヒトを救った太田光と妻

腎臓は妻から移植してもらった
腎臓は妻から移植してもらった(C)日刊ゲンダイ

「おまえは病気で死ぬんじゃない、バカで死ぬんだ」

 ボクにそう言ったのは爆笑問題の太田光さんです。彼が臓器移植のことを積極的に調べてくれなかったら、自分は今ここにいません。1999年当時、ボクは末期の「肝硬変」でした。

 肝硬変のもとはB型肝炎です。キャリアーであることは20歳すぎに献血で知りましたが、その頃は何も発症しておらず、病院でも「経過を見ましょう」という程度でした。 異変は、それから10年後。高熱が出て病院へ行くと、医師から「肝硬変です」と告げられました。すでにB型肝炎を通り越し、肝硬変からくる食道静脈瘤ができていて「いつ破裂するか分からない」とのこと。肝機能低下による意識障害が出たりするので、入退院を繰り返しながら“お笑い”をやっていました。

 それから2年が過ぎ、仕事がやっと上向きになってきた直後、ついに自宅のトイレで吐血しました。食道静脈瘤が破裂したんです。歩いて5分のかかりつけ病院でも血を吐き続け、そのまま意識がなくなりました。気付いたときは親戚や事務所の仲間が集まっていて、みんな手を叩いて喜んでいました。ボクは3日間、意識不明だったそうです。

「末期の肝硬変」と診断され、手の施しようがない状態でした。いちるの望みと思った臓器移殖も、医師に尋ねると「B型肝炎があると移殖をしてもすぐに肝硬変になってしまうので、米国でも移殖手術は受けられない」と言われました。もう絶望的でした。そんなとき、太田さんが「それがな、つい最近いい薬ができてB型肝炎でも移殖できるんだぞ」と言うんです。そして、冒頭のセリフが続きました。

■何日ももたないと感じ、太田さんに電話しました

 そこから渡米まで4カ月ぐらいかかりました。望みをつないでくれたのは、臓器移殖希望者を支援する民間団体「トリオ・ジャパン」。4月ごろ、太田さんと一緒に事務局を訪ね、事情を相談しました。

 程なく仲間が立ち上がってくれて、臓器移植にかかる莫大な金額5000万円を目標に、ボランティアの協力の下、募金活動が始まりました。とりあえず前金で3000万円を納めないと何も始まらないということで、6月に借金をして納めました。そして、受け入れ先が米国ダラスの病院に決まり、8月に渡米することになったんです。

 その時点で「余命半年」と宣告されていましたが、移殖者リストの登録順を見ると「1年~1年半待ち」でした(笑い)。ただ、「もう危ない」となったら、リストの順位が入れ替わるシステムなので、順位は上がったり下がったりするんです。

 でも、順番が回ってこないまま9カ月が経ち、体は限界にきていました。腎不全にもなり、急きょ首の血管から人工透析をしたところ、バスタオルでも間に合わないほど、口から血があふれました。

 その夜、「もう何日ももたない」と感じ、日本にいる家族と太田さんに電話をしたんです。「ここまで頑張ってきたけれど、もうダメだと思う」と……。「そんな弱気だからダメなんだ、おまえは」なんて太田さんに励まされながら、内心では「これが最後」と思って電話を切ったことを覚えています。

 ドナーが見つかったのは、そのわずか2~3時間後でした。「何だったんだ? さっきの電話は」となりましたが、とにかくうれしかった。手術室の前で「もう助からなくてもいいや」と思いました。それくらいやりきった満足感があったんです。と同時に、どこかで「この流れなら移殖は成功するだろうな」とも思っていましたけどね(笑い)。

■日本人で初めて腎臓肝臓の同時移植手術

 こうしてボクは日本人で初めて腎臓肝臓の同時移植手術を受けたのです。それまでずっと「最期ぐらい誰にも迷惑をかけずに逝きたい」と思っていました。でも、太田さんにはこう言われました。「おまえはそれでいいかもしれないが、周りの人間は、おまえに何もできなかったことをずっと後悔するんだぞ」って……。ズシンときました。

 そして今、ボクの腎臓は、2015年に再婚したカミサンから再移殖してもらった腎臓です。生体間の移殖には躊躇しましたが、カミサンは思いつきなどではなく、何年も前から移殖に関する勉強をして、自分の腎臓をボクに提供することを考えていたんです。キリングセンス時代からファンでいてくれた彼女の腎臓を移植したのは、入籍の翌月でした。

 太田さんやカミサンのほかにも、高校生のボランティアの人たち、ボランティアの医師、友達など、本当にたくさんの人に助けられました。人とのつながりでボクの命は支えられています。まだ、1000万円ぐらい借金が残ってますけどね(笑い)。

▽はぎわら・まさひと 1967年、栃木県生まれ。87年にお笑いコンビ「キリングセンス」を結成。母子感染によるB型肝炎から肝硬変を発症し、2000年に米国で腎肝同時移植手術を受けて生還する。06年にキリングセンスを解散し、現在はライターとして雑誌やウェブマガジンでの執筆のほか、臓器移殖者として講演活動なども行っている。

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