がんと向き合い生きていく

思いもよらない些細な出来事が患者の沈んだ気持ちを変える

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 主婦のBさん(68歳)は卵巣がんと診断されてから15年になります。最初の手術をしてから5年経過したところで腹膜に再発し、この時は死の恐怖からとても落ち込みました。抗がん剤治療で一時は良くなっても、その後に腫瘍マーカーの数値が上昇して4年間は治療を繰り返しました。9年目になって残ったリンパ節を手術し、それからの5年間は再燃なく元気で過ごされています。

 外来を受診された時に「よく頑張ったね」と声をかけると、Bさんは「自分でも本当によく乗り越えられたと思っています」と感慨を口にされていました。そして、次の外来の際には経過を書いたメモを見ながらこんな話をしてくれたのです。

「思い返してみると、最初にがんと言われた時、そして手術、再発した時、化学療法で髪の毛がなくなった時、腫瘍マーカーが上がってきた時、本当にいっぱい悩み、苦しみ、暗い日がありました。でも、私自身がおかしいのかもしれませんが、あんなにつらく、立ち直れないと悩んだのに、そのたびにまったく別の、些細なことで『治るかもしれない』と思えたのです。私は毎日、日記をつけているのですが、それを読み返しても本当にそう思うのです」

■熊、コスモス、2本の虹…

 再発を告げられた時、Bさんは奈落に落とされ、人に会いたくなくて部屋に籠もってしまったといいます。しかしある日、町内放送のスピーカーから「熊が現れて畑を荒らしました。ご注意ください」という声が聞こえてきたことをきっかけに立ち直れたそうです。

「びっくりして、怖くなって、隣の奥さんと『熊が現れたらどうしようか』などと会話を交わしました。なぜそれがきっかけになったのかは分かりませんが、その頃から少し立ち直れたような気がするのです。その日の日記には『熊だってドングリが少ないと山から下りてくる。熊も生きたいんだなあ』と書いてあります。熊が私を助けてくれたのかもしれません」

 その後、腫瘍マーカーが上がってきた時は本当に落ち込んだといいます。担当医から「治療しましょう」と言われ、Bさんは「今度こそ治らない。きっと死ぬ。なんのために治療するのか?」と考えたそうですが、黙って化学療法を受けました。

 そんなBさんを救ったのが庭に咲いていたコスモスでした。ある日、台風が来てコスモスはすべてなぎ倒されてしまいました。Bさんは手入れする気にもなれず、そのまま放っておいたそうです。

「しかし数日後、倒れたコスモスの先端が再び太陽に向かって垂直に伸び、花を咲かせたのです。そんなコスモスを見ていたら、『もしかしたら自分も治るかもしれない』という思いが胸をよぎりました」

 また、化学療法で髪の毛がごっそり抜けた時は、雨上がりに山にかかった2つの虹を見て、「悩んでいてもしょうがないのかな」と思ったといいます。

 治療を続けている間、家族から「元気出して」とか「頑張って!」という言葉をかけられると、「あなたみたいな元気な人に私の苦しみが分かるものですか」と言い返して泣いたこともあったそうです。「しっかりしないといけない」「家族に申し訳ない」と思いながら、かえってますます孤独になり、つらくなったといいます。

「それでも、自分で予想すらしていない些細なことがきっかけになり、『治るかもしれない』と思ったりしたのです。私は変ですよね? こんな話は、他の患者さんには役に立たないでしょうね」

 Bさんは笑顔に涙を浮かべながら、こう続けました。

「がんが再発して先生から治る可能性は少ないと言われ、つらいことがいっぱいありましたけど、いまこうして治って元気でいられます。本当に良かった」

 人は深く沈み、たくさん悩んでも、まったく関係がない些細なことがきっかけで、気分が変わることもある。もしかしたら、それで人は生きていけるのかもしれない。Bさんのお話を聞きながら、そう思いました。

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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