34歳のFさん(女性)は子宮筋肉腫で肺と肝臓にも転移がありました。友人である医師からの依頼でC病院のホスピス病棟にいるFさんを訪問して3回目の時のことです。
「先生、聞いてくれますか?」
鼻に酸素吸入のチューブを当てながら、Fさんが話し始めました。
「私は、もうやりたいこともできなくなりました。俳句を作るのもやめ、あれほど好きだったシューベルトの曲を聞いても、遠くでただ音がしているだけになってしまいました。昨夜は自宅に戻って過ごしましたが、私のベッドで眠っている娘の頭をなでながら、この娘をおいて死ねない、今のこんな幸せな時間がこのままずっと続いてくれるようにと思いました」
さらにFさんは、角川春樹さんの句集「白鳥忌」を手にしながら、この本に「人間は二度死ぬと言われている。一度目は文字通り本人が臨終を迎える時であり、二度目は死者が誰からも忘れられる時である」と書かれていることを思い出し、いま一度目は死んでも、二度目に死ぬまでは自分は娘の中で生きようと思ったといいます。
「普段はこの娘の背中でじっとしていて、何があってもじっとしていて、でも、この娘が困ったときに、悲しい時に、つらい時に、私を思い出してくれたらその時は私の出番だ。この娘が頑張って生きられるように、負けないように応援しよう。この娘が死んだ時、私には二度目の死がくる。その時には、私は永遠にいなくなっていい。そう考えたら、なんだかいま死ぬのが怖くなくなったようにも思ったのです」
そしてFさんは、娘さんに手紙を書いておこうと考えたといいます。
「私はあなたの中で、あなたの人生を邪魔しないように生きている。そして、あなたがつらくてどうしようもない時に、その時に私を思い出してくれたら私は応援する。あなたの心の中で一緒に生きている」
■生きている者の中に死者はいる
娘さんが字を読めるようになって、その時にこの手紙を読んでくれればいいという思いを話してくれました。
「愛は生死を超えるとはこのことだ。私の体は死んでもこの娘の中で生きるのだ。そう思ったら、ひとつの山を越えられたような、そんな気になりました。何か生きる希望が少し見えたようにも思いました。でも先生、おかしいよね! そんなバカなこと考えてとお思いでしょう?」
こう話された直後、Fさんの目から涙があふれてきました。娘さんを思う気持ちがFさんの生きるもとになっている。そして、Fさんは「いま死ぬことがすべての終わりではない」と自分自身にそう言い聞かせているように思えました。死の後も続くものがある。それでこそ、希望を持って生きていられる。そうなのだと思いました。
「おかしくないよ。そう、娘さんは手紙を読んで『お母さんが一緒に生きていてくれている』と、きっと心強く思うよ」
私はそう答えました。 Fさんの一言一言に納得しながら、心理学者・ユングの「人間にとって決定的な問いとは、自分が限りないものにつながっているかどうかということである」という言葉と、仏教学者・鈴木大拙の「限りないものがある。それで人は生きていられる」という言葉を思い出しました。
人は宗教とは関係なく、信仰があろうとなかろうと、死者と共にある。それで生きられる。
「お母さんは星になって、いつも私たちを見守ってくれている」
「こんな時、亡くなったあの人だったらきっとこうしただろう」
そんなことを思いながら、人は生きていくのです。そして子を亡くした親は、「娘の供養のために生きてきました」「きっとあの世で会えます」と口にします。
死はすべての終わりではない。生きている者の中に死者はいるのです。いつの時代でも、そうなのだと思います。
がんと向き合い生きていく