人生に勝つ性教育講座

豊臣家を滅ぼしたとされる「梅毒」豊臣寄り武将が次々と…

大阪城
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 天下取りに成功した徳川家康は性交渉の相手を選ぶことで身を護っていた、とお話ししました。当時は「梅毒」が流行していたからです。

 そんな家康と対照だったのが豊臣秀吉です。秀吉は裸一貫から成りあがって天下人になりますが、1598年に亡くなります。死因についてはさまざまな説がありますが、そのひとつに梅毒があります。

 ご存じのように秀吉は大変な女性好きだったと言われています。あまりの浮気癖に困り果てた妻のねね(後の北政所)が織田信長に浮気を止めるよう直訴したほどですが、それは生涯治らなかったと言われています。秀吉の晩年は、衰弱が激しく、下痢や腹痛、食欲不振に数カ月でやせ衰えていたことがわかっています。そのため、死因は大腸がんなどが考えられるのですが、そのひとつとして梅毒も挙げられているのです。

 梅毒とは主に性的接触によって感染し、症状が進むと皮膚や筋肉などに腫瘍ができる病気です。症状が進行すると、動脈瘤が出来て、それが破裂して命を落としたり、神経が冒されて錯乱状態になることが知られています。

 もともとは1495年にイタリアのナポリに上陸したフランス軍・傭兵から発見され、欧米に広まりました。この傭兵らは新大陸発見のコロンブスの船の乗組員であったため、先住民の女性から感染して、欧米に持ち込んだとの説もありますがハッキリしていません。 日本では16世紀の終わり、秀吉による朝鮮出兵がきっかけとなって感染拡大が起きたと言われています。そのせいなのか、豊臣家に忠誠を誓った武将の多くは梅毒と思われる病気でなくなっています。

 たとえば、加藤清正です。秀吉の子飼いの家臣で秀吉が亡くなった後に家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍として戦いその功績で肥後一国並びに豊後の国の一部を賜りました。その清正は、家康と豊臣秀頼との間で行われた「二条城での会見」(1611年3月)を取り持つなど和解をあっせんしましたが、その3カ月後に亡くなりました。死因は梅毒と言われています。清正と共に二条城での会見を取り持ったとされる、浅野幸長(よしなが)もその2年後に梅毒で命を落としたと言われています。

 また、家康の実の息子ながら豊臣家の養子になり、両家の間を取り持つ立場にあった結城秀康も亡くなりました。さらに、豊臣家が頼りとする大大名、前田利長も梅毒で死去したと言われています。

 その結果、力を失った豊臣家に代わって家康は天下を取ることを決意したとも言われ、秀吉が亡くなって17年後の1615年に大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼしてしまうのです。もし、豊臣家に近い戦国武将の死因が梅毒であるのなら、豊臣家はある意味、梅毒という感染症により滅亡したと言えなくもないのです。

 梅毒は、いまも代表的な性感染症のひとつに数えられています。太平洋戦争直後は22万人を超える患者が記録されましたが、その後、「ペニシリン」と呼ばれる薬が登場して激減。1997年には患者数が500人近くまで減りました。

 ところが2011年以降、若い女性を中心に増えています。その原因は訪日外国人が急増したことや、これまでなら出会うことのない人との出会いを可能にするマッチングアプリが登場したためともいわれていますが、それを裏付けるデータはありません。

 個人的にはコンドームをつけなくなったからだと考えています。エイズが話題になったときは、コンドームを装着することは性交渉の常識となっていましたが、エイズの話題が薄れるにつれてその常識が揺らいでいるように感じています。

尾上泰彦

尾上泰彦

性感染症専門医療機関「プライベートケアクリニック東京」院長。日大医学部卒。医学博士。日本性感染症学会(功労会員)、(財)性の健康医学財団(代議員)、厚生労働省エイズ対策研究事業「性感染症患者のHIV感染と行動のモニタリングに関する研究」共同研究者、川崎STI研究会代表世話人などを務め、日本の性感染症予防・治療を牽引している。著書も多く、近著に「性感染症 プライベートゾーンの怖い医学」(角川新書)がある。

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