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がん薬物治療のパイオニアだった木村禧代二先生との思い出

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 木村禧代二先生(1919~95年)は、白血病の治療のみならず、がん薬物治療の日本のパイオニアであり、中心人物として活躍されました。

 1972年、私は青森県立中央病院の内科に1年半勤務し、国立がんセンター(現在の国立がん研究センター)内科4期生レジデントに応募しました。面接官のひとりだった木村先生は弘前高校の出身で、そんな郷愁から私を採用してくださったように思います。以来、私は50年以上、東京での生活となりました。

 木村先生は、名古屋大学第一内科で白血病の研究をされた後、国立がんセンター設立と同時に赴任され、私がレジデントに採用された当時は副院長を務めていらっしゃいました。がんセンター血液内科のグループは木村先生以下、4人の常勤医、3人の非常勤医、さらに私を含めたレジデント2人でした。

 血液検査室には、白血病か? 再生不良性貧血か? といった診断の難しい症例のプレパラート(標本)が集まり、よく議論されました。今のような遺伝子検査などの特殊な方法はありませんから、最終的に木村先生が「これは白血病細胞だ」と言われるのが確定診断でした。その後の患者の経過からも、誤診されることはありませんでした。都内の大学に所属する血液学の教授たちが集まる勉強会でも、木村先生の診断、判断は正確でした。

 当時のがんセンター血液内科グループでは、毎週1回、朝8時から1時間の抄読会が行われていました。担当者は、外国の有名医学雑誌の最新版から論文をひとつ選び、図表などをプリントしたうえで論文を和訳して説明します。木村先生は出張などで不在の時以外は必ず出席され、いろいろとコメントされました。

 また学会の会場では、木村先生は一番前の席に座り、演者によく質問されていました。木村先生がおられる、おられないでは、会場の緊張が違っていたように思います。

 木村先生が年に何回か外国に出張される際は、血液検査室の技師さんも含め、手の空いている者は羽田空港まで見送りに行きました。どうしてそんな習慣になっていたのか、がんセンターが羽田に近いこともあったからかもしれません。私も何回か見送りに行き、飛び立つ飛行機に空港の屋上から手を振りました。

 木村先生は、毎朝8時には病院に着いておられました。夜に受け持ちの患者さんが亡くなると、翌朝8時に副院長室に報告に行きます。先生は、机の上に飾られたたくさんのカニ(cancer)の置物の前で、1時間ほどかけて白血病研究のことなどいろいろな話をしてくださいました。

■「同じことを10年やってみなさい」

 がんセンター3階の管理棟の奥にレジデント部屋があり、私はそこに3年間、寝泊まりしていました。夜8時ごろ、3階にある職員用の風呂に入るのですが、同じ3階に副院長室があります。ある時、木村先生が部屋から出てこられ、ばったり会ってしまいました。

「おーい、佐々木君、もう風呂か」

 そう声をかけられて、バツが悪かったことを思い出します。

 先生は固形がん化学療法の開発にも力を入れていました。「フトラフール」という抗がん剤の開発では、先生がロシアに出張された際、私の担当だった胃がん患者で有効性を示す胃X線写真のスライドを持参され、私はとても誇りに思いました。

 ある年の暮れ、4人の若手医師を駒沢公園近くにあった宿舎に呼んでくださり、盛りだくさんのすき焼きをごちそうになりました。あの時の超満腹感は忘れられません。また正月は、「田舎に帰れ。患者は私が診ておく」と言ってくださり、私は安心して帰郷することができました。

 先生は一筋、患者のため、学問のための人生を送られたと思います。

 私がレジデントを修了した時、「佐々木君、同じことを10年やってみなさい。10年やっていたら、必ず認められるようになる」と言葉をかけてくださいました。

 私はもう、その10年を4回以上繰り返しています。

 論文を書いていて、「今夜はもうやめた。明日にしようか」と思った時、しばしば「おーい、佐々木君、もう風呂か」という木村先生の声が、頭の中で響きます。

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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