メガネを語る

天皇でも将軍でもなく、ザビエルはなぜ地方大名にメガネを献上したのか

フランシスコ・ザビエル像(C)Album/Prisma/共同通信イメージズ
フランシスコ・ザビエル像(C)Album/Prisma/共同通信イメージズ

 前回、日本で最初のメガネは宣教師のフランシスコ・ザビエルが周防を根城とする戦国大名の大内義隆に献上したものだとお話ししました。1551年のことです。しかし、なぜ、大内義隆なのか、疑問に思う人もおられるでしょう。当時、大内家は有力戦国大名とはいえ地方の一大名にすぎません。なぜ、朝廷の主である天皇や、幕府の長である足利将軍を差し置いて、大内義隆が日本最初のメガネを手にできたのでしょうか?

 その答えがポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの「日本史」に書かれています。日本での布教に燃えるザビエルが鹿児島に上陸したのは1549年です。当初、ザビエルは日本で最も力のある人物、つまり天皇あるいは将軍に布教許可を得る必要があると考えていました。そのため、薩摩の領主である島津貴久に天皇へ謁見する便宜を図ってもらおうとします。ところが、便宜どころか領内での布教さえ禁じられてしまいます。やむなく鹿児島を去ったザビエルは、1551年にようやく都へたどり着きます。

 しかし、都は応仁の乱によって荒れ果てていました。天皇や将軍に実権がないことを察したザビエルですが、天皇と将軍に拝謁しようと試みますが、贈り物をもっておらず拒否されてしまいます。そこで、当時「西の都」とうたわれた周防で布教をしようと考えたザビエルは平戸に戻って贈り物を用意し、大内義隆から布教の許可を得るのです。

 日本史によると、この時、ザビエルは大内義隆に時計、鍵盤楽器、老メガネなど13の宝物を贈ります。大内義隆の行状記である「大内義隆記」にも同様の記述があります。この書物はザビエルが義隆と会った年に書かれたものです。これにより、ザビエルが日本にメガネを持ち込んだとされるようになったのです。

(メガネウオッチャー・榎本卓生)

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