メガネを語る

眼鏡技術者・朝倉松五郎の遺志を継いだ妻 内国勧業博覧会で賞を獲得

(提供写真)
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 ウィーン博覧会で「機械によるメガネの作製」の技術を学んだ朝倉松五郎(株式会社朝倉メガネの創始者)は眼鏡技術者だけでなく、のちに日本の写真家となる人材なども育てながらも、残念ながら1876年(明治9年)に病死してしまいます。その技術を継いだのがその弟子と妻の朝倉サヨら家族でした。

 翌年、東京・上野で開催された第1回内国勧業博覧会では、眼鏡関係では12人、28点が出品されましたが、その中に松五郎の妻サヨの名前が出ています。サヨはメガネでなく角形顕微鏡を出品していましたが、「顕微鏡を初めてすべて西洋の機械で製造し普通のメガネにいたるまで精巧に作ることを期待している」として賞状を受けています。ここで言う「西洋の機械」とは松五郎がウィーンで買い付けたもので、のちに政府から貸し与えられたものであったそうです。

 その後もサヨは内国勧業博覧会に出品を続け、第3回には「一等有功賞」を獲得しています。内国勧業博覧会は、殖産興業の一環として明治政府が力を注いだ事業であり、メガネの近代化にいかに政府が期待していたかがわかります。

 内国勧業博覧会には他にも、メガネレンズ量産の草分け的存在で眼鏡問屋を営んでいた、岩崎宗吉(岩崎眼鏡店の初代岩崎喜三郎の兄)、村田長兵衛(2018年に閉店した村田眼鏡舗の創始者)らも出品していました。

 ちなみに村田眼鏡舗はもとは江戸時代に創業し、京都御所にも納めていた鏡師で、1872年に東京・日本橋で開業。オーダーメードのメガネを扱い、顧客には伊藤博文や島崎藤村、昭和天皇など著名人が多いことで有名でした。「長兵衛天眼帳」(山本一力著)のモデルとも言われています。

(メガネウオッチャー・榎本卓生)

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