上皇の執刀医「心臓病はここまで治せる」

心臓疾患を発症したがん患者はまず心臓の治療を行うのが原則

天野篤氏
天野篤氏(C)日刊ゲンダイ

 よく使われている抗がん剤の中には心臓に対する毒性が認められるタイプがあり、副作用として心不全を起こすケースがあります。中でも「アントラサイクリン系」の抗がん剤は、使用している患者さんの約10%で副作用として心臓の機能に障害が起こり、心筋症から心不全を起こすケースが報告されていると、前回お話ししました。

 ほかに、進行食道がんに対して行われる「FP-rad療法」でも、心不全につながる場合があります。この治療法は、フルオロウラシルとシスプラチンという抗がん剤を併用する化学療法に、放射線治療を組み合わせた治療法で、がんを取り除く外科手術と同じくらい良好な成績を出している効果的な治療法として知られています。

 このFP-rad療法では、かつて全胸部に放射線を照射していました。食道がんは肺に転移することが多いためです。近年は放射線の照射野がかなり狭くなっているためそれほどでもありませんが、以前は広く当てる放射線で肺臓炎を起こして肺が傷み、なおかつ抗がん剤の影響で弱っている心臓の心膜にも炎症が生じて収縮性心膜炎と同じような病態になり、急激な心不全を発症するケースがありました。

 私もかつて、FP-rad療法の副作用による心膜の炎症から心不全を起こした患者さんに対し、心膜切除術を行った経験が何度かあります。手術が奏功して助かったケースもあれば、残念ながらよくならなかった患者さんもいらっしゃいました。

 そうした患者さんは、がん治療を受け、担当医から「がんは消えましたよ」と言われ、がんによる症状や検査での異常が見られなくなる完全寛解の状況になり、やっと一息つけるタイミングで今度は心臓トラブルがやってくることになります。ですから、患者さんにしてみれば「え、こんなはずでは……」という心境で、がっくりきてしまう人も多いでしょう。

■腫瘍と循環器の分野に新たな領域が登場

 そんな患者さんたちに対応するため、近年は「腫瘍循環器学」と呼ばれる新たな領域の医師が登場しています。がんと循環器、それぞれの専門家が連携して診療や研究に当たるのです。これまで、がん治療ではがん以外の病気に対してほとんど配慮されていなかったのですが、抗がん剤などの薬を含めたがん治療が急速に進歩したことで、かつては助からなかったがん患者さんが長く生きられるようになりました。その結果、がんの治療中や治療後に循環器疾患を発症する患者さんが増えてきたため、そこをケアする新たな領域が生まれたのです。

 まだ、腫瘍循環器学の領域の医師数は少なく、腫瘍の専門家と循環器の専門家では意見の違いなどさまざまな問題があるだろうと推察されます。ただ、がん治療はますます進歩するうえ、高齢化もさらに加速して該当する患者さんが増えるのは間違いないので、これからはその存在がより重要になってくるでしょう。

 もしも抗がん剤の治療中に心不全が起こった場合、抗がん剤が疑わしければ投与を中止します。そのうえでまずは心不全に対する治療を行い、心臓の状態を改善してからあらためてがん治療に臨むのが原則です。

 ただし、その場合の心不全に対する治療はさまざまな難しい問題があります。

 たとえば、抗がん剤治療を受けて心不全を発症した患者さんの中には、それほど重くはない冠動脈疾患が隠れているケースがあります。そうした患者さんに対し、冠動脈を広げて血流を確保するため血管内にステント(金属製の筒状の網)を入れ、血栓予防の抗血小板剤を多用したとき、はたして体がどこまで耐えられるかという問題が生じます。がんと闘ってきたことでただでさえ体力が衰えているうえ、抗がん剤の影響で心機能が低下しているケースも少なくありません。ただやみくもに心臓の手術を行うわけにはいかないのです。

 ほかにも抗がん剤治療中の心臓弁膜症も判断に迷うケースが少なくありません。その時点での弁膜症がそれほど悪化していない段階でも、抗がん剤の影響で心機能が低下すると予想以上に悪化する場合があり、それをなんとかしないといけない状況があるのです。

 さらに“現病の予後”についても考えなければなりません。抗がん剤治療によってがんが一時的に寛解したとしても、その後どれくらい余命があるのかを考慮する必要があるのです。

 たとえば心臓の手術を行えば、きちんと回復して日常生活に戻るまで2カ月くらいの期間が必要です。がんを治療したあとでも1年しか生きられないとしたら、そのうちの2カ月をほぼ寝たきり状態になる心臓治療の療養に割いてしまっていいのか、という問題があるわけです。

 こうした難しい問題がいくつもあるからこそ、さきほどお話しした腫瘍循環器学のさらなる発展が期待されます。

 心臓疾患があるがん患者さんの治療に関しては、私は草創期から関わってきました。いまの循環器治療に関するガイドラインでは、心臓疾患があってがん治療を行う患者さんは、冠動脈の場合ならステントではなく、まずは全身への負担が少ない心拍動下の冠動脈バイパス術を先行してから、がん治療に臨むのが安全性が高いと推奨されています。これは、われわれがずっと行ってきた治療で良好な成績が積み重なったことにより判断されたものです。

 前回お話ししたように、今年3月、一部の抗がん剤の心臓に対する副作用への対応について、日本臨床腫瘍学会と日本腫瘍循環器学会が初めてガイドラインをまとめました。これを機に、心臓疾患を発症したがん患者さんの診療や治療が、さらに進歩していくのは間違いないでしょう。

■本コラム書籍化第2弾「若さは心臓から築く」(講談社ビーシー)発売中

天野篤

天野篤

1955年、埼玉県蓮田市生まれ。日本大学医学部卒業後、亀田総合病院(千葉県鴨川市)や新東京病院(千葉県松戸市)などで数多くの手術症例を重ね、02年に現職に就任。これまでに執刀した手術は6500例を超え、98%以上の成功率を収めている。12年2月、東京大学と順天堂大の合同チームで天皇陛下の冠動脈バイパス手術を執刀した。近著に「天職」(プレジデント社)、「100年を生きる 心臓との付き合い方」(講談社ビーシー)、「若さは心臓から築く 新型コロナ時代の100年人生の迎え方」(講談社ビーシー)がある。

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