医療だけでは幸せになれない

医療の中でのギャップ…「診療所」と「病院」のコロナ重症者の確率の違い

写真はイメージ
写真はイメージ

 ここまでは論文と個別のギャップについて取り上げてきたが、今回は「現場の違い」によるギャップについて検討したい。

 「マスク着用を継続すべきだ」という意見は病院医師から発せられることが多く、「マスクはやめるべきだ」という意見は病床を持たない診療所医師から発せられることが多いように思われる。実際にそうした研究があるわけではないので私の印象に過ぎないが、その印象に基づいて、病院と診療所というセッティングの違いによって、医学研究と現場のギャップにも大きな違いがあることを示したい。

 コロナがすでに重症化した患者は、診療所を経ることなく病院に運ばれることが多い。軽症者は病院から診療所へ逆紹介される場合もあるし、重症者の治療が優先されるため、軽症者はすぐには診てもらえないという現実もある。それに対して、軽症者はまず診療所を訪れることが多いだろう。つまり、病院医師は重症者ばかりを見ているし、診療所医師は軽症者ばかり見ている、という現場のギャップが生じる。当然、診療所での重症患者の確率は低く、病院での確率は高い。

 そうした目の前の患者から考えれば、病院医師はマスク着用を勧めるし、診療所医師はマスクを勧めないという意見に振れることが容易に予想される。さらに、病院医師が見る重症者の大部分がマスクを付けていない生活を送っていたりすれば、ますますマスク着用をという方向へ振れるだろう。

 上記のような自分自身の経験に基づいて判断するときの危険が、ここでは明らかになっている。ここで必要なのは経験に加えて、コロナ患者全体を対象とした医学研究である。しかし、医者の中にも学校現場と同様、医学研究は信頼できないという一群がある。

■個別の判断として選択肢は常に保証されるべき

 そうした医者の1人とX(旧Twitter)上で議論をしたことがある。その医者はマスクを着用すべきでない、ワクチンも打つべきではないという意見をXで広めていたのだが、「重要なのは自分が見ている現実であり、医学論文など信頼できないので読む必要はない」と言っていた。私にすれば、そういう医者の言うことこそ信頼できないことは明らかである。医学研究を参照せず、自分の目の前の事実だけを見ていては、コロナの軽症者しか経験することができず、コロナはただの風邪という結論になってしまうからだ。

 そうした判断に対して、マスクを着用せず、ワクチンも打たないという重症者を多く診ている病院医師から反対意見が出るのはもっともだろう。さらに病院医師の多くは医学論文を参照して、そうした自分自身の目の前の患者だけでは重症化を過大評価していることを認識している場合が多い。

 ただそうはいっても、医学研究を読めば判断ができるということでもなく、個別の判断としては、マスクを付けない、ワクチンを打たないという選択肢は、常に保証されるべきだし、数年後にはマスクの効果もワクチンの効果も、害の方が勝るという医学研究が主流にならないとも限らない。害の検討には多くの時間を要することが多いのは前回取り上げたが、この先、「医学研究など信頼できない」という人の意見を支持する信頼に足る医学研究が発表されるという逆説的な結末もありうる。

 ここでも学校におけるマスク着用と同様な判断の困難がある。それが学校と同様、国の判断も「個人の主体的な選択を尊重し、着用は個人の判断に委ねる」ということであった。ただここでの判断には、「マスクは有効」という医学専門家からの意見が提出されたうえでの決定であったところが、一斉休校や学校の判断と異なるところである。そう考えれば、この国の判断は、医学研究も考慮したうえでの以前よりは一歩進んだ判断であったともいえる。

 そうはいっても、それが妥当なものであったかの議論は今後も継続する必要がある。しかし、そうした議論はこれまでもなされていないように、今後もなされる可能性は低いだろう。この実施された政策の評価がなされないというのは、コロナの問題に限らず、現在の政治の最も大きな問題の1つである。

名郷直樹

名郷直樹

「武蔵国分寺公園クリニック」名誉院長、自治医大卒。東大薬学部非常勤講師、臨床研究適正評価教育機構理事。著書に「健康第一は間違っている」(筑摩選書)、「いずれくる死にそなえない」(生活の医療社)ほか多数。

関連記事